原日本紀の復元026 紀年復元の中間まとめ:清寧天皇から推古天皇 | 邪馬台国と日本書紀の界隈

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邪馬台国熊本説にもとづく邪馬台国・魏志倭人伝の周辺と、まったく新しい紀年法による日本書紀研究について
ぼちぼちと綴っていきたいと思います。

 「原日本紀(げんにほんぎ)の復元」では、今後、倭の五王の時代について考えていきますが、その前に、ここまでの考察で得られた紀年をまとめておきたいと思います。

 

 まだ、確定といえるのは用明天皇以後だけですが、清寧天皇から継体天皇までも暫定的に決定しています(図1)。

 

◆図1 『原日本紀』の紀年 *2018年3月現在

 

 西暦にピンクの網かけをしている部分(586年の用明天皇以降)は確定といってよいでしょう。

そして、西暦に黄色の網かけをしている部分が、暫定的に比定している部分です。敏達天皇紀には無事績年(事績の記されていない年)がありませんので、572年即位、585年崩御ということでよいのではと考えています。

また、599年の清寧天皇即位から531年の継体天皇崩御までの期間も暫定的に比定しました。本ブログで以前に考察した継体朝と仁賢朝・武烈朝の二王朝並立を前提とした紀年です。「暫定的」としているのは、その後の安閑天皇、宣化天皇、欽明天皇の紀年を確定できていないからです。純粋に三天皇の無事績年を除いて紀年を縮めれば、安閑天皇の即位は542年となります。

 

 さて、この安閑天皇の治世については少し謎があります。

 『日本書紀』によれば、継体天皇25年(531年)の2月7日、継体天皇は長子である安閑天皇を即位させた後に崩御されます。つまり、いわゆる譲位がなされたと記しているのです。すると、『日本書紀』が採用している翌年称元法(前天皇の崩御された年の翌年を新天皇の元年とする紀年法)にしたがえば、安閑天皇元年は532年となるはずです。

 しかし、安閑天皇紀によれば、元年の太歳(干支)は「甲寅(きのえとら/こういん)」(534年)となっているのです。そして、安閑天皇はその翌年の安閑天皇2年12月17日に崩御され、その後を宣化天皇が継がれるわけですが、その宣化天皇元年の太歳は「丙辰(ひのえたつ/へいしん)」(536年)となっています。つまり、太歳から導かれる安閑天皇崩御年は535年なのです。

 ですから、(1)安閑天皇元年が532年で治世4年めの535年に崩御されたのか、(2)安閑天皇元年が534年で治世2年めの535年に崩御されたのか、不明であり、いずれにしても『日本書紀』の記述に矛盾が生じるのです。これについては、継体天皇紀に「継体天皇が崩御されたのは28年(534年)であるという異説がある」と併記していることもあり、なかなか難しい問題となっています。

 

 先に述べたように、単純に無事績年を除いた紀年表では、安閑天皇の即位は542年となります。上記のどちらの説をとるとしても8~10年の差があります。

 ところが、ここで少し気になることがあります。継体朝と仁賢朝・武烈朝の二王朝並立を想定した場合の事績年の重複です(図2)。

 

◆図2 『日本書紀』における3天皇の事績年一覧

 

 ピンク色の網がかかっているのが事績の記された年です。二王朝並立を想定した場合、事績年が重複する年が10年あるのです。この10年がもし、本来は安閑天皇紀、宣化天皇紀、欽明天皇紀に割り振られるべきものであったとしたら、安閑天皇の即位は532年ということになります。これについては、現時点では根拠のない憶測でしかありませんから、ここではこれ以上触れないことにしますが、何か不思議な一致であると感じています。以前、「原日本紀の復元021 稲荷山古墳出土鉄剣の471年説・雄略天皇説を否定してみる〈6〉」で構想した乎獲居臣(オワケノオミ/オワケノシン)の物語が現実味を帯びてくるので、安閑天皇元年は532年であってほしいという願望があることは否定しませんが…。

 

 では、499年以降について「原日本紀」の現状の紀年を時系列でまとめておきたいと思います。ただし、あくまでも私の考える紀年であることを重ねてお断りしておきます。

 

 また、ここまでの考察で新たに生まれた仮説は、次の4つでしょうか。

(1)隅田八幡神社「人物画像鏡」銘文(503年)の解釈

(2)507年~525年の二王朝並立

(3)稲荷山鉄剣銘文(531年)の解釈

(4)崇峻天皇による竹田皇子・推古天皇・蘇我馬子粛清未遂事件(592年)

 

 

499年

清寧天皇(白髪武広国押稚日本根子天皇(しらかのたけひろくにおしわかやまとねこのすめらみこと))が磐余甕栗宮(いわれのみかくりのみや)で即位

502年

倭王武が征東(大)将軍に進号(『梁書』武帝紀)

百済の武寧王が即位

503年

清寧天皇崩御

隅田八幡神社「人物画像鏡」銘文が記される。日十大王=飯豊青皇女、男弟王=弘計王(後の顕宗天皇)、斯麻=億計王(嶋稚子:後の仁賢天皇)

504年

顕宗天皇(弘計天皇(をけのすみらみこと))が近飛鳥八釣宮(ちかつあすかのやつりのみや)で即位

506年

顕宗天皇崩御

507年

仁賢天皇(億計天皇(おけのすめらみこと))が石上広高宮(いそのかみのひろたかのみや)で即位

継体天皇(男大迹天皇(をほどのすめらみこと))が樟葉宮(くずはのみや)で即位を宣言。二王朝並立状態となる

511年

継体天皇が筒城宮(つつきのみや)に遷宮

517年

仁賢天皇崩御

518年

武烈天皇(小泊瀬稚鷦鷯天皇(おはつせのわかさざきのすめらみこと))元年(即位は前年12月)。宮は泊瀬列城宮(はつせのなみきのみや)

継体天皇が弟国宮(おとくにのみや)に遷宮

523年

百済の武寧王が薨去(武寧王陵出土墓誌)

525年

武烈天皇崩御。仁賢・武烈朝の皇統が断絶し、二王朝並立が終了

526年

継体天皇が磐余玉穂宮(いわれのたまほのみや)に遷宮。ついに大和に入り名実ともに大和王権の天皇となる

527年

筑紫国造磐井(つくしのくにのみやつこいわい)の乱が勃発

528年

物部大連麁鹿火(もののべのおおむらじあらかい)が磐井を破り乱を鎮圧

531年

継体天皇が安閑天皇(勾大兄広国押武金日天皇(まがりのおおえひろくにおしたけかなひのすめらみこと)に譲位され、その日に崩御

7月、安閑天皇の(仮の)宮で乎獲居臣が金錯銘鉄剣を製作。この翌年、乎獲居臣は武蔵国の争いを鎮めるために遠征するが、その地で亡くなり、稲荷山古墳の墳頂に葬られる。

 

532年〜570年

安閑天皇が勾金橋宮(まがりのかなはしのみや)に遷宮

安閑天皇崩御

宣化天皇(武小広国押盾天皇(たけおひろくにおしたてのすめらみこと))が檜隈盧入野(ひのくまのいおりののみや)で即位

宣化天皇崩御

欽明天皇(天国排開広庭天皇(あまくにおしはらきひろにわのすめらみこと))が磯城島金刺宮(しきしまのかなさしのみや)で即位

仏教が伝来

 

571年

欽明天皇崩御

572年

敏達天皇(渟中倉太珠敷天皇(ぬなくらのふとたましきのすめらみこと))即位。百済大井宮(くだらのおおいのみや)を造営

576年

豊御食炊屋姫尊(とよみけかしきやひめのみこと)(後の推古天皇)を皇后とする

585年

敏達天皇崩御

586年

用明天皇(橘豊日天皇(たちばなのとよひのすめらみこと))元年(即位は前年)。宮は磐余池辺双槻宮(いわれのいけのへのなみつきのみや)〈推定38歳〉

587年

用明天皇崩御〈推定39歳〉

588年

崇峻天皇(泊瀬部天皇(はつせべのすめらみこと))元年(即位の礼は前年)。倉梯宮(くらはしのみや)を造る〈推定31歳〉

592年

崇峻天皇崩御

崇峻天皇は、竹田皇子、炊屋姫皇后、蘇我馬子の粛清を図り、竹田皇子の殺害には成功するが、その後は未遂に終わり自身が殺害される〈推定35歳〉

593年

推古天皇(豊御食炊屋姫天皇(とよみけかしきやひめのすめらみこと))元年(即位は前年)〈推定40歳〉

聖徳太子(厩戸豊聡耳皇子(うまやとのとよとみみのみこ))を皇太子(ひつぎのみこ)とされる

 

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拙著『邪馬台国は熊本にあった!』(扶桑社新書)