卑弥呼の墓はいつから前方後円墳になった? | 邪馬台国と日本書紀の界隈

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邪馬台国熊本説にもとづく邪馬台国・魏志倭人伝の周辺と、まったく新しい紀年法による日本書紀研究について
ぼちぼちと綴っていきたいと思います。

桜の新宿十二社熊野神社。記事の内容とは関係ありませんが、

最近地味な画像ばかりだったのと、ご利益がありそうなので…。

 

 

 先日、西日本新聞が「『卑弥呼の墓では』巨大な前方後円墳? 謎の丘陵」という記事を掲載して注目を集めました。

 福岡県赤村にある丘陵が前方後円墳ではないかというものです。もし古墳であれば墳丘の全長が約450メートルで、日本最大の前方後円墳「大仙陵古墳(仁徳天皇陵古墳)」に迫ります。また、「古代史ファンからは『卑弥呼の墓では?』といった期待の声も聞かれる」とか、後円部の直径約150メートルが、「魏志倭人伝にある邪馬台国女王卑弥呼の墓の直径『径百余歩』とほぼ一致するという」など、卑弥呼の墓との関連性を匂わせる内容となっています。

 

 私の個人的な感想では、どうみても古墳にはみえませんでしたが、墳丘が崩落して大きく変形してしまっているなどの可能性もあるので、断言はしません。しかし、地元でも、「文化財担当者らは一様に、丘陵を自然の地形として、前方後円墳との見方を明確に否定している」とのことなので古墳でない可能性が高そうです。

  では、「村おこし」などと結びついた記事なのか、などと考えていましたが、やはり気になるのは「卑弥呼」と関連づけた報道である点です。万が一、古墳であったとしても、「前方部」の形状や大きさからみて、邪馬台国畿内説が卑弥呼の墓だとする箸墓古墳のような初期型古墳ではなさそうに見えますが、そのあたりの検証がなされているのかも多少疑問です

 

 また、それ以上に私が考えさせられたのは卑弥呼の墓の「規格」についてであり、その現状について考えると改めてがっかりしてしまいました。

 いつから、卑弥呼の墓は「後円部」の直径が「150メートル」程度であるなら「前方後円墳」でもOKになってしまったのでしょうか。

 やはり、ここにも纒向遺跡の年代比定の影響が色濃くあらわれていると思います。もともと箸墓古墳が注目されるようになったのは、邪馬台国畿内説において、『日本書紀』に登場する倭迹々日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)が卑弥呼と同一人物ではないかという説が広がったからです。その墓が太市墓(箸墓古墳)だと宮内庁から治定(じじょう)されていたわけですが、当初は箸墓古墳の形状が前方後円墳だということや築造年代が4世紀とされていたこともあり、卑弥呼の墓と考えることはかなり疑問視されていたようです。

 

 それが近年、C14年代法という科学的年代測定法を根拠に、纒向遺跡を3世紀前半へとさかのぼらせる発表がなされ、一部マスコミは「邪馬台国は纒向で決まり!」という論調を定着させてきました。その過程で、ずるずると流れに引き寄せられるように箸墓古墳は「卑弥呼の墓」という地位を得てしまったように思えます。

 そして、それに伴って魏志倭人伝に「径百余歩の冢(ちょう)」であると記された卑弥呼の墓は、「後円部の直径が150メートル程度の前方後円墳でも可である」とされてしまっているのです。だから、今回の赤村の丘陵についての報道でもすぐに「卑弥呼」に結びついてしまうのです。

 

 「径百余歩の冢」についてはさまざまな解釈があってもよいと思います。

 しかし、卑弥呼の墓は、「山頂や山稜を整形して造られた直径25メートル程度の墳丘墓」であろうと考えている私にとって、この一方的な拡大解釈は歯がゆいばかりです。

 私は、基本的に卑弥呼の墓が築かれた3世紀中頃は古墳時代ではないと考えています。弥生墳丘墓の時代(この歴史区分については定義するのが難しいですが)であり、山や丘陵などの自然地形を活かした墳丘墓が中心だったと思います。近年、古墳時代が3世紀半ば(場合によっては3世紀初頭)までさかのぼってしまったのは、ひとえに纒向遺跡や箸墓古墳の年代比定が原因であるとも思っています。

 また、「径百余歩」の「径」はどう考えても円形(円墳)の直径であり、前方後円墳のサイズを語るのには適していないと考えています。前方後円墳のサイズをいうなら、現在も一般的に用いられている「墳丘長」を用いるだろうと思うのです。

 さらに、卑弥呼が朝貢した魏の礎(いしずえ)を築いた曹操(そうそう)は厚い葬送を戒め、薄葬(はくそう)を遺言しています。曹操が亡くなったのは220年です。卑弥呼の最初の遣使が238年、亡くなるのが248年とすると、まだその薄葬が引き継がれていたと推測されます。そのような時期に、魏に朝貢している立場の邪馬台国(女王国)が、墳丘長約280メートル、後円部径約150メートルにも及ぶ巨大な墓を築造するとは思えません。

 以上のようなことから、私はやはり卑弥呼の墓は、魏志倭人伝および韓伝で用いられている尺度(いわゆる短里)に基づく直径百余歩(=約25メートル)の円形墳丘墓だと考えるのが現実に即していると思っています。

 

 さて、今回の赤村の記事をみてそんな風に思ったわけですが、これがどのようにして発見されたのかも気になりました。きっかけはグーグルマップなどの航空写真だったのでしょうか。最近では、人工衛星からの撮影画像や観測データを検証して未発見の遺跡の痕跡を捜索するなどの「宇宙考古学」が成果をあげているようです。砂漠やジャングルなど、従来なら探索しようのなかった地域からも重要な遺跡がみつかっているようで、今後への期待が高まります。日本でもぜひ本格的に運用できるようになってほしいものです。そうなったら、いつか卑弥呼の墓も発見されるかもしれないと、心から思っています。

 

 今回の件で思い出したのですが、10年近くも前でしょうか、私もグーグルマップだったかグーグルアースだったで、未発見の古墳や墳墓はないかなと探したことがあります。そして、「ここは!」と思った地形を見つけたのですが、前方部とおぼしき所が削平されているようだったので、国土地理院の昔の航空写真で削平される前の地形を確認したことがありました。

 その時は、おそらく自然の地形だろうということでそのまま忘れていたのですが、今回改めて調べてみると、、、削平された前方部にはソーラーパネルがびっしりと並んでいました。。これも時代の流れでしょうか。ついでなので、過去の航空写真も改めて探してみました。下のものです。

 

国土地理院 地図・空中写真閲覧サービス(1961年撮影)より

 

 いかがでしょうか? やはり「くびれ部のあたりをみると自然の地形と考えた方がよいのでしょう。もし、これが古墳だとしたら、とんでもないことになりますから。なぜなら、この「後円部の直径は300メートル超ありますので、日本最大の古墳ということになってしまいます。

 

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拙著『邪馬台国は熊本にあった!』(扶桑社新書)