日本では子供の躾で最近でこそ、減ってきたが、

少し前までの日本では

「好き嫌いなく何でも食べる」

「出されたものは、残さず綺麗に食べる」

などが美徳と言う名の強烈な呪縛として染みついてきた。

 

以前の、飢饉などが続いた今日本と呼ばれるエリアや、

食糧さえ満足にない終戦後の日本では、

実際、食べることのできるものは非常に恵まれていた。

其の傍らでは、捨てられた子供が飢え死にしたり、働けなくなった老人が山に捨てられたり、河童にさらわれといってみたり(溺死させる)、神隠しにあったり(山に埋められる)など、残りの家族を守るための究極の緊急避難が何度となく繰り返されてきた。

 

食糧セーブだけでなく、その遺体を活用するものもあり、しかし子供たちや家族に食わせて自分は辛くて食べられなかったなど当時の悲劇は単純ではない。幸い?日本の場合、山には人以外のものも多く、それぞれに壮烈な生存競争があったのは言うまでもない。

 

結果、生き残ったのが今の我々、日本人である。かつての事実は闇に、または童話、神話、伝説の中に隠され日の目は見ないが、強烈な事実を経てきたが故の、悲しい思いのゆがみは現在の日本にも残っている。

 

当時は、彼らの死の代わりに、何でも兎に角、食べて生き残る義務もあった。それこそ、命に代えた食べ物だったわけで、上記は躾として続いた。

 

しかし、インドネシア。

残さず食べると死ぬこともある。寧ろ残す勇気が必要。

「折角出してくれたもの」と思い、がんばってしまうと大変なことになることも多々ある。

出した側も、「昨日まで自分は大丈夫だった」から出す程度で、今日食べてディアレーになろうとチフスになろうとアラーのおぼしめしでしかない。

 

「御残しはあきまへんで~」のばぁさんは子供達を絶滅させかねない。

嫌とか怪しいと感じたなら無理に食べる必要などない。

 

大体、こいつら豚肉はダメだとかアルコールはダメだとかそれこそ好き勝手なことを言っている。そのくせバリではブタはよくて牛はダメとか。

なので、「宗教上の理由でこれは食べれない」とでも言っておけばいい。

 

殺人の毒の入れ方についても、多少は死っておくとよい。

良くあるパターンで

「同じものを食べたのに、彼だけが死んだ」毒殺パターン。

1) 食器の方に毒

2-a) ターゲットの指に毒を付けさせる(色々方法はあるが、何かをつまませる。ゲームや家財の紹介などの時にやっておく。)

そのまま、みんなでチョコやお菓子をつまんで食べる。

2-b) 氷に毒を仕込み、ターゲットだけ氷が解けてから飲む

2-c) 手を洗った後に人ごとにタオルを渡し、タオルに毒を付けておく。

3) ターゲットが飲んでいる薬剤の効果を激化させる成分を食べさせる。

4) アレルギーを調べておき、そのエキスをたっぷり混ぜる。(エビとかカニなど使いやすいが、これで殺せるかと言うと???である。)

なので、その1と2くらいは警戒しておいても罰があたらない。

流石にマジシャンズチョイスで選ばされた場合は、あきらめることだ。

 

日本の美徳では、「折角、きれいにして出してくれた食器」というイメージでその目の前で磨くなど失礼な行為ととられかねないが、

インドネシアではそもそも食器は折角も何も「綺麗でないのが前提」で、現地人ほど、使う前にティシュ―などで必死に磨く。

実際、薄黒い油の層が無くなることもある。

細菌類は殺菌できないにしても、化学物質や虫の卵や糞など、変なものの体内への取り込みは多少押さえることができる。運がよければ致死量や発症限界を越えずに何事もなく助かる。

 

食事の前に手を洗うのは、万国共通の知恵であるが、このタイミングがまた「お客様の前から欠礼するのは失礼」という変な見栄もあり、難しかったりする。

 

食器を主に使い、手づかみしない欧米型では、手づかみで食べるものの前には、最悪フィンガーボールという指洗い用の水を出してくれる。しかしインドネシアでは出ないところも多数(出るところ、言えば出てくるところ等もある)。

日本だとサンドイッチにウエットティシュ―がついていたりするが、こちらでは、まず、基本は無いと思った方がよい。「手、洗えばいいじゃん」と思っているためだ。

 

それよりも、インドネシアでは、

「ここは手づかみで蟹を食べるので、一緒に手を洗いに行きましょう!」と誘うのが、より良いマナーかもしれない。

ただし、洗った後、トイレにあるタオルで手をふくのは無し。使いすての紙タオルかドライヤー、または自前のハンカチが良い。

 

最近の世代はともかく、躾がまだ厳しかった時代の者は、

「あれは呪縛であった」と割り切って、自分を守ることを優先できる心」を鍛えておくと良いかも知れない。

 

そういえば、アメリカでの生活のときは、また面白い呪縛に戸惑ったことがある。

親しい友人宅に招待された時の事、真っ先に冷蔵庫に案内され、「飲み物はここにあるから、好きなものを適当に飲んでね」と言われた。

それは、アメリカ独特だと思うが、飲みたいものを飲みたいだけ飲んでくれという、ホスピタリティーでいちいち客に頼ませたり、逆にホストが飲み物のような些末なものに気を使うよりも良いのだ。

 

しかし、こちらからすると「人の家の冷蔵庫を勝手に開けるなんて…」と妙に気まずいものがあって、これも日本の呪いなのかと思ったりもした。

しかし、これは恐らく例外的で裕福なアメリカだからこその話では無いかと今でも思う。

実際30年前にも拘らず冷蔵庫は巨大で馬鹿でかく、中にはそれこそ、ビール数種類、コーラ(tab)、スプライト(7up)、お茶、ワインなどなど、なんでもござれで、「この人、これ全部飲むのだろうか?」とまだ貧しかった貧乏学生上がりの自分は変な疑問を持ったものだった。

当時、私の冷蔵庫にあったもの: 水道水を凍らせた氷。。。。マル

 

美徳と思っているもの、マナーだと信じ込まされているもの、常識だと信じて疑っていないことなど、全てが只の呪縛である可能性があることを常に疑っていた方が、生きやすいことに気付かされる。

 

そうそう、なかなかできないのだが、レストランでは大声で「ばー!」と人目を気にせず叫べなければ、大変不愉快な食事をすることになる。

インドネシアでは、まず「駅前発声練習」ばりに、レストランで

「(ん)ば~!!」と叫んで、早く仕組みに慣れよう。

声の大きい人にしかサービスはされない。

なので、それが出来ないうちは、注文にも支払いにも不便する。

私は気が弱くなっているときは未だに難儀することがある。なので呼び出しボタン付きのレストラン("さと"など)はありがたい。

 

フランスやアメリカのレストラン経験が多い人は結構つらく恥ずかしい瞬間であろうことは良く理解できる。

ある意味、それすらも、インドネシアでは「呪縛」といえよう。

これは日本の昭和初期までのレストランではインドネシア同様であったので、最近の欧米からの呪縛であろう。

昭和初期の食堂の様子:

* (パァーン、パァーン) おい、ネーちゃん, ネーちゃん。

* はーい、ただいま。

* ネーちゃん、酒だってば。

(うるせ~!糞じじい。だからこの時代には来たくないんだ)

 

あ…・2017年でも一部同じか?

 

インドネシアで通用しない日本の呪縛

* 残さず食べる。 -> 怪しいと思ったら食べない

* 食器にケチをつけるような態度をとらない。 -> 必ず綺麗かどうか確認。見えなくても一応ティッシュで磨いてから使用。スプーン、フォークも同様。既に盛りついてでてくるとき。GOOD LUCK...

* 席を立たない。 -> 手洗いはしたほうがよい。どっちかというと・・・

* 大声を出さない。 -> 大声を出さないと誰もサービスに来ない。挨拶の一種ととらえよう。大きな声で、ハイ!