皆さんこんばんは菊澤多門です。


今日は日本のことは好きだけど、
死後の世界は信じないという方にお伝えします。


「行って来たんだから仕方がない」

「見て来たんだから仕方がない」

これは丹波哲郎氏の言葉です。


このような死後の世界を語られると、
私はその説得力の無さに笑い転げていました。

客観的証拠が無いのに信じられるわけがない。

三途の河がどうの

馬頭と牛頭がどうの

エンマ大王がどうの

などというのは作り話で、

子供の頃からそれを話して聞かせることによって日頃の行いを戒めるものだと信じていました。

だから子供の頃に見た、

地獄絵図や死後の世界の記憶が脳裏に焼き付いているので、

寝てる時や、意識が朦朧としてる時や、
生死の境目をさまよっているときに、

それが見えた気がするのだと思っていました。


そして実際に死後の世界を語ることで、
儲けている人はいるわけで、

それを信じることは、その人達に財をもたらすだけだと思っていました。

ましてや生まれ変わりなどは信じられない。

心が動くのは脳が指令を出すからで、
脳死すると心が動くわけがない。

守護霊などがいるとするなら
「守護する」などの目的があるわけで、

例えば死んで脳が指令を出せないのに守護することができるわけがない。

人は死ねば、「無」になるだけで、
居た人が居なくなるだけ。

人は唯一、物を作り出せる動物なので自分も自分以上の何者かに作られたと錯覚しているだけ。

故人の魂が存在していて、
見てくれてたらいいなあ、

という希望から、霊魂だとか死後の世界だとかが語られるのだと思っていました。

とにかく物理的で合理的な見方だけに傾倒していたのです。


しかし事実として

霊魂や

死後の世界や

生まれ変わり

などがあるのか?無いのか?

どちらの答えも出ていないのです。

どちらの答えも出ていないのに私は
それらを信じないことを選ぶのが
理性的で賢明なのだと信じこんでいたのです。



私は大楠公(楠木正成公)を尊敬しています。


御存知の方も多いと思いますが、


大楠公は七生報国(しちしょうほうこく)の心を弟の正季公(まさすえこう)と確認し合い、
果てられました。

七生報国の心というのは
何度でも生まれ変わって朝敵を滅ぼす
という心です。

大楠公を尊敬する西郷隆盛、吉田松陰、伊藤博文などの志士は大楠公を祀る湊川神社にはるばる訪れ、額ずいたのです。


A級戦犯という濡れ衣を着せられて絞首刑にされた東條英機大将も楠木正成公を尊敬し、

我征くも

またこの土地にかえりこん

国に報ゆることの足らねば


という辞世の句で七生報国の心を伝えておられます。


私が尊敬する、そうそうたる偉人が

「生まれ変わり」や「御霊」「霊魂」などを

信じたのです。

文明が遅れていた為に
「まやかし」を信じたのか?

違います。


それが日本の伝統であり、文化なのです。

考えてみると日本では

「肉体は滅んでも魂は不滅で生まれ変わる」

と信じられた歴史が脈々と続いています。

戦死なされた英霊は生前、

「靖国神社で会おう」

「二本目の桜の下で会おう」

と、約束なさったのです。

死後の世界が無いと考えるのは、
それを気休めだと捉えることになります。


また、
郵便局の数倍にのぼる神社や寺があるという
現実を思えば

死後の世界も霊魂も神も

信じるのが当然であると今の私は思うのです。

日本人であるならば。
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