今日のグラウンディング自分がどうあれば受け入れられるか知るために 人が周りの人々にどう扱われているのか 読み取ろうとしていた (知るという言葉を、こんな風に使いたくない つまり、こんなことは知らなくていいんだ) だけど、その人がどういうエネルギー状態で そこにいるのかを感じたいと思った それは、私がどういう状態でそこにいたいかを 追求するようになったから (「居たい」というのは そこに「在りたい」とは思ってないのかもしれない)