津本陽さんを偲んで新府城址へ | 八ヶ岳ゆるふわ日記

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八ヶ岳南麓大泉と東京を行ったり来たりの毎日。日々のよしなしごとを綴ります。

(七里岩の断崖を利した新府城址の航空写真)

 

 私は戦国小説が好きだ。

 中でも津本陽の作品が一番好きである。

 彼の小説は例えば山岡荘八の作品よりも史実に忠実だし、といって司馬遼太郎の作品ほどにウンチクに走ることもなく、読んでいて心地よい。

 特に信長の元服から本能寺の変までをまとめた「下天は夢か」と、後を継いだ秀吉の生涯を描いた

夢のまた夢」の2作品は傑作中の傑作である。長編ではあるが、KOEIの人気ゲーム「信長の野望」シリーズがお好きな方にはゲームの登場キャラが多数出てくるので、特にお勧めしたい。

 

 その津本陽さんが先月ご逝去された。享年89歳。

 訃報に接して改めて読み返したのが「武田信玄」である。信玄、勝頼二代の武田家興亡史だ。

 

 読み終わってややおセンチな気分になり、新府城址を訪ねることにした。

 武田神社(躑躅ヶ崎館跡)、恵林寺(武田家菩提寺)、景徳院(勝頼公墓所)には行ったことがあるが、大泉からほど近い新府城には足を運んだことがないというのも失礼な話だ。

 

 七里岩ラインを下っていくと、一面の桃畑の中の小高い丘が新府城址である。新府は地名になっており、新府白桃で有名な県内有数の桃の産地である。

左:新府城址の小高い丘 

右:新府の桃はすでに実がついている(新府の桃の記事は →ここ

 

山頂本丸跡 藤武稲荷神社の社殿があるのみで城郭の遺構は一切残っていない

 

(勝頼公をお祀りする祠が一基)

 

 長篠合戦の惨敗から6年、1581年(天正9年)勝頼は府中(甲府)躑躅ヶ崎から新府城に居を移した。

 1582年3月、信長、家康の甲斐侵攻とともに武田家連枝の重臣穴山信君が寝返った。

 3月3日、窮地に陥った勝頼は、新府を捨てる。目指すは小山田信茂の居城岩殿城(中央道岩殿山トンネルのとこ)である。

 当時武田家は北条氏と断交しており、東京方面に逃げても成算はない。おそらく堅城岩殿城にこもって

時間を稼ぎ夫人(北条氏政妹)を通じて北条家に降るつもりだったのであろう。

左:岩殿山(標高634メートル=スカイツリーと同じだ)中央高速から断崖がよく見える

右:目もくらむ絶壁「稚児落とし」には悲しい伝承がある

 

(勝頼公逃避マップ 中央道じゃなくてハナから国道141号で真田の郷を目指せばよかった)

 

 3月9日、新府から45kmの勝沼IC付近で勝頼一行は信茂の裏切りを知る。

 やむなく主従は嵯峨塩温泉経由雁坂トンネルから秩父方面を目指したが追手に阻まれ、3月11日勝頼公は夫人とともに天目山で自刃した。享年36歳。

 

  おぼろなる 月もほのかに 雲かすみ

    晴れて行方の 西の山の端

 

(歌川国綱「天目山勝頼討死図)

 

 最後に勝頼公に引導を渡した形の小山田信茂は、戦後信長に成敗された。

 その信長もそれから3か月後に本能寺の露と消え、穴山信君も信長横死のドサクサの中で落命した。

まさに一寸先は闇である。

 

 津本陽さんの冥福をお祈りするとともに、新参の山梨県民として甲斐の地に眠るもののふ達の御霊に祈りを捧げたい。