標高330mのモノローグ

富士山の10分の1、東京23区最高峰の10倍の山間に暮らして20年。地域の自然や思いを綴ります。

山椒の実を摘み短編小説の「山椒魚」を読む

2017-07-21 19:33:48 | 日記
山椒の葉と実

わが家の畑に行くのには10mほどの坂道を登る。その途中に自生している山椒の木がある。妻が実がなっていると言ってそれを採った。保存して調味料として使うつもりだ。古くは別名ハジカミと呼称していたとのこと。生姜もハジカミといっていたが、生姜が普及してからはその名を生姜に奪われた。それで山椒ということになったそうだ。確かに香辛料としては生姜の方が用途が広い。

さて、山椒と聞くと山椒魚を想起する。それも水に住む山椒魚ではなく、短編小説の「山椒魚」だ。井伏鱒二という作者の名前も即座に連想される。中学か高校の時かは忘れたが国語の教科書に載っていた。内容も忘れてしまった。題名と作者名だけが自動的に頭の中をめぐる。受験のための丸覚えだったことが露呈する。この知識がどれだけその後の自分に役だったのだろうかと思うと、徒労ということばがふさわしい。そして何となく情けないような気持ちになる。

それでも内容を知りたくて図書館で本を借りてきた。他の作家の作品も掲載された作品集の中の10ページ程の短編だった。岩屋の中でのんびりすごしていたところ、大きくなりすぎて幽閉されてしまった山椒魚。その内面を描いたものだ。書評を読んで分かったが、かつて読んだ内容より短くなっていて、結末の10行ほどが削除されたものだった。岩屋の中に飛び込んできたカエルを閉じ込めた。出られない状態で虚勢を張ったり反目し口論となる。こうして2年過ぎ、お互いに相手のため息が聞こえないようにしている。ここで改稿された作品は終わっている。

削除された部分は、蛙の深い嘆息を聞きとめた山椒魚は許そうとする。しかしカエルは空腹で動けず死ぬばかりになっていた。カエルも山椒魚のことを怒ってはいないと答える。これが本来の終わりの部分だ。

書評等では井伏鱒二文学を代表する作品なので、改稿について種々論じられている。作者本人もその後、原版か改稿版かどちらがよいのか迷っている様子が語られている。改めて作品を読んで、作者の迷いに共感できると思った。

自分自身で閉じこもった状態と他者によって閉じこもりの状態に陥った状態が共存している。だれの心の中にも存在する葛藤を描いている。作者が迷ったように葛藤のままか、葛藤を許して安泰の状態で過ごすか、誰しもが迷う状態を象徴していると思える。改稿せざるを得なかった事情は二者択一できないものであるという、現在にも通じる心のあり方を表現しているようだ。
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