それ、問題です!

引退した大学教員(広島・森田信義)のつぶやきの記録

気になる表現

2017-08-16 14:22:45 | 教育

 (庭の隅の畠で開いたオクラの花)

① 「私って、これ、好きかも(しれない)。」
   こういう表現を耳にすると、のけぞりそうになる。「好き」「嫌い」の主体は、他ならぬ「自分自身」なのである。「かもしれない」などという怪しげで、曖昧な認識(感じ方や考え方)をする人間がどれほどいるのかを考えると、例外的存在であろうと想定するが、そうではない。いくらでも、こんな表現をする人間、特に若い女性が存在するのである.こんな女性とは、付き合わないのが得策であろう。さんざん時間とお金を費やし、心遣いをしても。「私って、あなたのことを好きかも。」で終わる可能性がある。「これが好きです。」「あれは嫌いです。」と明解に表現しよう。なによりも自分自身を立て直すために。言葉は、気持ちや考えの現れであるから、安易に、曖昧な言葉を使用していると、その言葉に見合う認識しかできなくなる。国語教室では、絶対に使用してはならない
 「うれしいかなと思ったりします。」という形式の表現に出会うこともある。」だれの内面かと思ったら、自分自身のことである。なぜこんな回りくどいことをいうのか。「……とは思います」という表現も、ごく普通に使われている。なぜ「……と思います」ときっぱり言い切らぬのであろうか。「そもそも」とか「戦闘」という言葉の意味を巡って、国会がもめているというが、、言語感覚として疑問があるうちに何とか打開策を講じなくてはならない。

②  「……ふつうに 」
  小学校の先生のツイッターの文面を引用した。そのなかに、「普通にうるさい」という表現があった。このような「普通に」を初めて聴いたのは、勤務先の大学の女子大生からであり、そのときは、妙な表現をする者だと思いつつ、おもしろいとも思ったのだが、よくよく考えてみると、こういう安易な表現が言葉を駄目にするものとも考えるようになった.普通程度にうるさいことは、単に「うるさい」と言えばよい。「とてもうるさい」状態を彼女たちは、「超(チョウ)うるさい」と言う。「チョウ」と「とても」の音節に大した差はないから、エネルギー節約の問題ではない。最近では、この「スーパー」状態を「鬼」とか「神」という言葉で表現することもあるようだ。(最も、この場合は、うるさいことが恒常化しているという意味かもしれないが。)  
 言葉は、そもそも概念的存在であり、具体的なイメージを表現するには、様々なスキルを必要とする。ここに取り上げた諸現象は、その言葉の概念性を一気にイメージ化する試みと言えなくもない。ツイッターやメールに絵文字を使用する若者が増えていることと無関係ではなかろう。分析的、論理的思考を背景にしない表現は、情緒的、具象的な表現を求める。そういう表現技法も、時には必要であろうが、それが基本になり、それ以外の表現方法が使用できなくなる状態は怖い。

③ 「……とは思います。」
 インタビューされる人間の多くが、「……とは思います」と言う。いつからそうなったのか分からないが、大流行である。いつしか、インタビューを見聞きしながら、心の内で、「……と思います。」と言えよ、言えよと願って、いつも叶わないで苛々する。どうしてこんな奇妙な表現が後半に使われるようになったのだろう。
 「とは思う」は、「強いていえば」というニュアンスがついて回る。「いろいろなことを思ったり、感じたりもするけれども、まあ(強いていうなら)……とは思う。」のでああろう。別の思いがなくても「……とは思う」と言っている。なぜ一音を無駄に使うのか.ら抜き言葉を常用しながら、一方では、こんな無駄をしている。
 「……と思います。」ときっぱり言い切ろう。


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