戦争と平和を題材にした絵本を取り上げてきました。絵本とは、理想を描くものです。当然ながら戦争を描いている時も、こんな状況がなくなればいいなという思いで取り上げているのです。戦争を描いている絵本は、本当のところ、平和を描こうとしているのです。
 戦争と平和は、どのような関係にあるでしょうか。世の中には、戦争はダメで、戦争がなければ平和だという安直なとらえ方さえあるようです。「戦争反対」とデモ行進するような人々は、戦争と平和を黒と白のようにとらえているようです。戦争を導こうとする政治家を排除すれば平和になる、とでも思っているのでしょうか。平和を祈ったり、平和を叫んだりすれば平和になるのであれば、こんなに楽な話はありません。私は、もっと難しいと思います。戦争と平和は、むしろ連続しているのです。「平和」という状態の中にも戦争の芽のようなものがたくさんあります。「戦争」という状態の中にも平和の芽のようなものがたくさんあります。私たちは戦争か平和かといった二項対立ではなく、いっそう深いところに真の問題をとらえる必要があります。真の問題というのは、私たちの目の前に現れたとしても、戦争のようには見えないこともあるのです。それは「隣人との喧嘩」にも、「国家間の戦争」にも含まれています。真の問題は、小さなところから少しずつ膨らんできて、気がついたら大きな力になっていきます。ですからその萌芽的な部分を抜き出して改善することによって、戦争への道を防ぐことができるのです。平和というのは、その過程に浮かび上がるものだと思うのです。そして多くの絵本は、それをはっきりと描いてきているのです。
 なぜ争いがエスカレートしていくのか。私たちの日常生活には様々な葛藤がありますが、争いや対立の規模が大きくなっていくのは、なぜでしょうか。相手よりも大きな力で圧倒しようとするから、という答え方があります。しかし、それだけでは十分な説明にはなりません。そもそも人間の力なんてのは、たいしたことはありません。道具が無ければ目の前の大木を倒すことさえ出来ないのです。ボクシングのような殴り合いは戦争にはなりません。争いがエスカレートするのは、生身の人間の限界を超えて、象徴や空想を持ちだそうとするからです。人間の力を越えた武力や技術力を駆使するから話は大きくなるのです。私と貴方というその存在感にとどまっている限りでは、戦争にはならないはずなのです。相手の顔が見えない、相手が一人ひとりの人間ではなく、鬼か、悪魔か、抽象的な存在となった時に、私たちはいっそう大きな怒りをぶつけようとするのです。本来ならば人間の感情は複雑です。不満や不快であっても、それがどこのどの部分が嫌なのか、どうして欲しいのか。その詳細を明らかにしていけば解決へ向かいます。しかし「怒り」という感情だけを反復してしまうことがあります。「あいつら、許せない」という感情です。その感情はいとも簡単に大勢で共有していくことでしょう。かくして、私たちは「我ら」と「奴ら」とに分かれて戦争を始めるのです。「怒り」の真っ只中にいる人は、不快ではなく、むしろ心地よい感覚にあります。「ふざけんな」「バカヤロー」と言いながら、心の中はスッキリしているのです。それゆえどんどんエスカレートしていくのです。
 私たちは普通、個人間の対立や葛藤を、個人間の対立や葛藤のレベルで処理しています。しかしそこに外国人が絡んでくると、解決困難な問題になっていきます。話しても通じないとか、気持ちが共有できないとか、そういう場合には、個人間で葛藤を処理できないと感じてしまいます。気がつけば、私たちは強い国家の存在に多くのことを期待してしまうのです。圧倒的に強力な存在がそこにいれば安心だからです。巨大で強い国家は、安心です。心の中はスッキリします。それゆえ葛藤はどんどんエスカレートしていくのです。
 戦争は悲惨であり、戦争はない方がいい。戦争はあらゆる事象の中でも最も残酷なのです。それでは、戦争の「何」が残酷なのでしょうか。戦争が悲惨であるというのはどういうことでしょうか。たんに命が失われるから残酷だというのでしょうか。人が人を殺すから残酷だというのでしょうか。いや、戦争は事件や犯罪とは別です。戦争の残酷さは、もっと違うところにあると思います。当初は素朴な愛情や怒りからスタートしますが、最終的には相手の地域や国家全体の殲滅を目指すようになります。そこでは、自分の思いや素朴な感覚を消し去り、ただ上司の命令に従って全てを破壊していきます。正しいことのために行うと宣言し、何の躊躇もなく、恐れもなく、真っすぐにボタンを押す。ナイフで相手を殺すのではなく、ボタンを押して殺すのです。戦争においては、勝利という一つの目標のために、多様なもの全てを総動員します。全ては「手段」になります。役に立たないものは全て削除します。「私」と「彼」の違いが消え、同じ立場に分類され、「我ら」と「奴ら」に区別されていきます。それら全てが、残酷なことなのです。
 平和とは何でしょうか。子どもがおしっこをする姿は、紛れもなく平和です。「我ら」と「奴ら」の間に橋をかけることも、平和です。自分から見える世界観を唯一のものとして絶対視するのではなく、多様な見方がそこにあるということを認めることもまた、平和です。自分という枠組みに進入してくる相手を敵として認識するのではなく、相手との会話や共通理解を楽しもうとすることもまた、平和です。一言でまとめるのではなく、多様な言葉をつかって多様な変化を描き、深い感動を得ることもまた、平和です。間違いや失敗そのもの(それは成長をもたらす)に価値を見出すことも、平和です。その意味で、私たちの身の回りに平和は溢れているはずです。

<関連書籍>
山田満著『「平和構築」とは何か』平凡社新書、2003年。
長谷部恭男著『憲法と平和を問い直す』ちくま新書、2004年。
小玉克哉ほか著『はじめて出会う 平和学』有斐閣アルマ、2004年。
伊勢崎賢治著『武装解除』講談社現代新書、2004年。
藤原帰一著『戦争の条件』集英社新書、2013年。
松元雅和著『平和主義とは何か』中公新書、2013年。
西谷修著『戦争とは何だろうか』ちくまプリマー新書、2016年。