19世紀半ばの日本と西欧列強 ⑨慶喜とフランス | BEYOND BORDERS

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15代将軍に就任して1年足らずで政権を朝廷に返上した慶喜(1866年12月5日~1867年12月9日)。

慶喜は世界情勢をよく把握しており、形式上「攘夷」を言う立場にあってもそれは不可能であることを誰よりもわかっていました。

 

よく知られる歴史では

「新政府軍で薩長を中心にした軍と幕府軍が衝突。鳥羽伏見の戦いが起こる。慶喜は戦地から抜け、船で江戸城に戻り、すぐに上野寛永寺に自ら蟄居した。」

 

「勝海舟と西郷隆盛の会談により、江戸城無血開城に成功したものの、上野の山の戦いや会津戦争・五稜郭の戦い(北海道・1869年5月)と続く…」

 

新政府の方針に不満をもつ旧幕府の勢力が、1868年1月に鳥羽伏見の戦いをはじめます。

慶喜の意向ではなかったのですが、戦いが始まった際はけして負けるつもりはありませんでした。

何しろ幕府側は会津・桑名兵が4500名、幕府軍(フランスの訓練を受けている)10000名、新政府軍(薩長土佐)は5000名。

 

ところが、

「新政府軍が『錦の御旗』をかかげ、自らが「朝敵」とされるやいなや兵士を残し、宿舎であった大坂城から主要な指揮官たちを連れて江戸に戻る。」

となります。

慶喜の突然の心変わりです。

 

 

イギリスが薩長につき、武器を供給・資金を供給したように、フランスは幕府側に着きます。

好奇心旺盛で新しい物好きの慶喜は、フランス駐日公使レオン・ロッシュからもたらされる西洋の情報・品々に心惹かれます。

フランス料理もワインも大好き。

 

1867年5月に慶喜は大坂で各国公使を招き、晩餐会を開いています。

前菜は海老の冷製、スープ、メインは牛肉の赤ワイン煮。そしてシャンパン。

これには薩長についていたイギリスの公使パークスも感嘆してしまうほどでした。

 

ナポレオン3世(簡単な近代フランス史も近々書きますね、この人は革命後に皇帝になり、ヨーロッパ各地で戦争をしたナポレオンの甥になります。)から献上された「馬」もお氣に入り。

京で「攘夷」を唱える中、本人はフランスの軍服姿で馬に乗って写真を撮り、「なんちゃってナポレオン」をしています。

これを江戸に残した正妻に送ると奥さんも(@_@)

慶喜さんは顔立ちもきりっとして日本人に見えないほどきまっていたのです。

 

さらに慶喜はオランダ語から英語の学習が進められる当時の情勢の中、水戸の弟・昭徳(昭武 慶喜の16歳下・清水徳川家の当主となる)やこの奥さんに「フランス語を習うように」と指示しています。

情勢が落ち着き自らが新政府のトップになったら、各国のVIPのもてなしは「夫婦でフランス語」で、と描いていたのでしょう。

大政奉還の同年の1867年、フランスで「パリ万国博覧会」がありました。

状況が許せば本人も行きたかったことでしょう。

これは弟と渋沢篤太夫(栄一)に行かせています。

 

このような調子ですから、幕府軍の一部にフランスの軍服を着せていたほどです。

兵器だけでなく、フランスからの軍事顧問団も雇い入れていました。

「フランスかぶれ」と言われていました。

幕府はフランスの援助を受け、慶喜もフランスだけが味方になってくれる国と見なしていました。

 

正妻と書いたのは・・・

慶喜さん、京に上ったのは京を戦火から守るためだったのですが、この戦場に側室とは言い難い「愛妾」を連れて来ています(;^_^A

日本全国から武士たちが集まり、町が焼かれ、暗殺がやまない状況に女性連れで来ていたのです。

東本願寺や二条城に泊まっていましたが、常に一緒です。

かなり顰蹙ものです。

 

「錦の御旗」説ですが、これはどうでしょう。

「錦の御旗」」とは天皇軍と示すものです。

 

 

実はこの時の旗は西陣で急ごしらえで作られたものでした。

古くから伝わる伝統の品・・・ではありません。

岩倉具視・三条実美ら朝廷で実権を握っていた公家が、古書を見て作らせたものです。

それは新政府軍も幕府軍も知らないことでした。

 

 

岩倉・三条らは、最後の最後までこの旗を新政府軍と幕府軍のどちらに持たせるか(どちらを味方につけたら自分たちに有利か)悩んでいたのです。

討幕のための列藩会議には260以上の藩がある中、16藩しか出ていなかったのです。

徳川の領地を取り上げることも出来ず、孝明天皇の葬儀費用も幕府に借金してくらいです。

 

しかし、最終的には新政府軍に持たせました。この経緯はここでは省略します。

 

慶喜から夜こっそり呼ばれた数名の武将は

「これから作戦会議か?」

と思います。

 

ところが、夜の闇に紛れて慶喜は大坂城から抜け出し、小舟で沖に停泊している幕府艦・開陽丸に乗り移り、江戸へ逃げます。

この時も愛妾は一緒です。これもど顰蹙です(;^_^A

この際アクシデントがあり、小舟は誤って開陽丸ではなく、アメリカの軍艦に乗ってしまいます。

 

アメリカの軍艦はきちんと将軍慶喜と一行をもてなします。

一体何が起こっているのかわからない、「自分たちは何をしているのか」困惑している部下に自ら西洋料理の説明し、おいしくワインやハムもいただいています。

 

明るくなってから幕府艦に乗り換え、江戸湾に入り江戸城にすぐ入った・・・かというと、正確には品川沖に艦は停泊。

そこから浜御殿(現在の浜離宮恩賜庭園)まで小舟に乗ります。

そこで「ウナギの蒲焼」を注文爆笑

江戸城では御納屋(将軍の食膳に乗せる魚や野菜の管理するところ)でマグロを注文爆笑爆笑

 

そして江戸城に行き、義母にあたる皇女和宮こと静寛院宮(14代家茂夫人)と義祖母にあたる篤姫こと天璋院(13代家定夫人)にそれぞれ朝廷と薩摩へのとりなしを頼みますショボーン

 

1か月近く経ってからです。徳川の菩提寺でもある上野の寛永寺に慶喜が蟄居したのは。

 

 

その後、徳川宗家は田安家から亀之助を養子を取り(徳川家達)、慶喜は水戸での謹慎後、家康のゆかりの駿河で長く暮らすことになります。

彼は「乗馬・釣り・和歌・謡・自転車・写真・漢画・猟・囲碁・西欧の歌・油絵・刺繍」と多趣味でした。

正妻との間の子は生まれすぐ亡くなっていましたが、側室との間に21人(育ったのは13人)の子を持ちました。

 

明治30年(1897年)、慶喜は東京へ戻ることを許されます。

明治34年(1901年)には「公爵」となり、大正1年に76歳でこの世を去ります。

13代家定は34歳、14代家茂は21歳で亡くなりました。慶喜は徳川の歴代将軍の中では最長命でした。

 

 

もし、彼がこの動乱の時代に将軍になっていなければ、その才能を活かせたことでしょう。

彼はなぜあの時、劣勢ではなかった幕府軍を置いて江戸に戻ったか?

ロッシュは慶喜に幕府軍への援助・武器供与を約束します。

しかし、それと引き換えに日本の南(薩摩や琉球)の領土割譲をフランスから要求されていました。

 

 

慶喜はインドや清(中国)が植民地にされただけでなく、西欧人が新航路発見以来、南北アメリカ大陸の原住民を殺戮し、労働人口を補うためにアフリカ大陸から多くの人を連れ去り黒人奴隷として働かせていたことを知っていました。

ここでも説明しています⇒奴隷狩り・奴隷労働  労働力確保のための黒人奴隷輸出

アフリカにも国があり、そこの民にも家族があったものを、西欧の軍事力に到底及ばなかったため、異国へ連れ去られ奴隷労働です。

慶喜が最も危険視していたのはアメリカでした。

 

慶喜は慶喜なりに守りたいものがあったのです。

「日本の国土を分割してはならない」と。

 

彼の行動から見ると「空氣が読めない」「他人が自分を悪く言っても氣にしない、マイペース」ですが、好き勝手しても言い訳をしないというのは…立派だったのかもしれません。