19世紀半ばの日本と西欧列強 ⑧ 大政奉還 | BEYOND BORDERS

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みなさんは徳川慶喜というとどういうイメージがありますか?

 

「やっと15代将軍になれたのに、在位期間わずかで、しかも幕府の政権が終わってしまったかわいそうな人」

 

でしょうか?

 

私はこどもの頃はそう思っていました。

 

しかし、ご本人は将軍になんぞなりたくなかったことと思います。

 

徳川12代将軍家慶の頃のから、「時期将軍は?」といろいろと噂されていました。

家慶には14男13女いましたが、成人にまで育った男子は、13代になる家定だけだったのです。

 

12代家慶の父、11代家斉は26男27女がおりオットセイ将軍とも呼ばれ、世継ぎ以外をどんどん他藩に婚姻に出したため、諸藩は経済難になったほど金欠

 

血を受け継いでいる家定公は体が弱く、頭もちょっと・・・と囁かれてもいました。

「うちの子は将軍としての器量がないかもあせる

と、実のおとうさんまでそう思い、

「慶喜くんの方が合っているじゃないかなあショボーン

と、悩んでいたのです。

 

 

政局が乱れ、国難にある中、幼少の頃から秀才と名高い慶喜に注目が集まっていました。

慶喜は生まれは水戸藩。

慶喜の父、徳川斉昭で、なんと言うかラウドスピーカー、頑固、政治に口を挟みたい、女性好き…といった人でしが、このお父さんも

「うちの7男、すっごく頭いいかもひらめき電球 もしかして、自分将軍のパパになれちゃうかもラブ

と、慶喜を御三卿の1つ一橋家へ養子に出します。

その方が将軍レースに近づくからです。

 

御三卿とは「田安」「一橋」「清水」で、8代・9代から分家した大名で、将軍家の身内でもあります。

宗家や御三家に跡取りがいなくなれば、輩出することになっていました。

 

12代の血を引いている病弱な家定、水戸からその英邁さを轟かせ東京(江戸)にやってきていた慶喜。

「頭がいいだけでなく顔もいい!」というのは全国的に知られていました。

 

結局、13代は家定となりましたが、それでも慶喜パパの斉昭や薩摩の島津斉彬などは

「14代こそ、慶喜を!!

と、望んでいました。

島津斉彬は分家の姫を養女とし、さらに彼女を公家の近衛家に養女に出させ、そこから13代の家定の御台所(正室)としました。

彼女が「篤姫(天璋院)」です。

彼女を通して時期将軍に「慶喜」をプッシュしようとしました。
雄藩も自分たちが政権を取れれば最高なのですが、そうできないのなら自分たちの傀儡政権が欲しかったのです。

 

 

慶喜は自分のパパやおじさん(島津)たちがワイワイしているのを小さい頃から見ていましたら、

「誰がこの時局に将軍になったって上手く行きっこない」

と、幕府では目立たないようマイペースで、定時で上がる会社員のように無難に勤めていました。

 

1858年、家定は在位4年で亡くなり、結局、14代には御三家の紀州徳川家から来た家茂となりました。
この時、家茂はまだ13歳の若さです。

 

一橋慶喜26歳は将軍後見職・禁裏御守衛総督となりました。

 

4年後の1862年、公武合体構想のため、孝明天皇の妹、和宮親子(ちかこ)内親王が降嫁し、家茂の御台所となりました。

翌年1863年、将軍として229年ぶりに上洛し、天皇に攘夷を誓います。

この頃が京に全国から武士が集まり、賑わっていた頃です。慶喜も京にいました。

 

 

前ブログに書きましたように、「朝敵」とされた長州に対し、第一次長州征伐、第二次長州征伐が繰り広げられます。

この1866年、第二次の途上、家茂は病で大坂で亡くなります。20歳でした。

 

確かにかっこいいよね

 

話が大変長くなりましたが、慶喜の人生を語るには、将軍になる前の状況が大切です。

1864年に将軍後見職を辞任してからは、京で朝臣として御所守備をしていました。

1866年12月、第15代将軍として就任。

翌年の1867年10月、倒幕の密勅を受け、「大政奉還」します。

12月には「王政復古の大号令」で、慶喜は激昂する会津藩・桑名藩をよそに、京から大坂城へ移ります。

 

慶喜は「尊王」の水戸藩出身。

朝廷に政権を返上し、新しい政府で職に就けばよし、と考えます。

天皇の下で諸侯会議を開き、国家首班となり徳川を温存させようと思います。

武力を持ってこれに逆らおうなどとは考えていませんでした。

 

ところが、若い祐宮(さちのみや、のちの明治天皇)の後ろ盾となっていた岩倉具視をはじめとする急進的公家は、幕府と薩長を両天秤かけ、どちらのカードを使おうかと考えます。

 

薩摩の西郷隆盛や大久保利通は、なんとしても武力で幕府を完全に倒したいと願っていました。

そのため、慶喜のいない江戸城に攘夷討幕派浪人を使って、略奪などちょっかいを出し、武力衝突の引き金にしようとします。

 

「くれぐれも慎重に、そそのかされないように」

 

と注意していた幕府でしたが、騒乱が度重なったことから、ついに攘夷討幕派浪人をかくまっていた「薩摩藩邸を焼き討ち」にしてしまいます。

 

これで西郷・大久保の軍事行動の口実が整いました。

 

さらに翌年の1868年1月「鳥羽伏見の戦い」が始まります。

薩摩・長州・土佐の新政府軍との幕府軍の戦いです。

ここから戊辰戦争は始まり、国内内戦が広がっていくのでした。