みなさんは徳川慶喜というとどういうイメージがありますか?
「やっと15代将軍になれたのに、在位期間わずかで、しかも幕府の政権が終わってしまったかわいそうな人」
でしょうか?
私はこどもの頃はそう思っていました。
しかし、ご本人は将軍になんぞなりたくなかったことと思います。
徳川12代将軍家慶の頃のから、「時期将軍は?」といろいろと噂されていました。
家慶には14男13女いましたが、成人にまで育った男子は、13代になる家定だけだったのです。
12代家慶の父、11代家斉は26男27女がおりオットセイ将軍とも呼ばれ、世継ぎ以外をどんどん他藩に婚姻に出したため、諸藩は経済難になったほど
血を受け継いでいる家定公は体が弱く、頭もちょっと・・・と囁かれてもいました。
「うちの子は将軍としての器量がないかも」
と、実のおとうさんまでそう思い、
「慶喜くんの方が合っているじゃないかなあ」
と、悩んでいたのです。
政局が乱れ、国難にある中、幼少の頃から秀才と名高い慶喜に注目が集まっていました。
慶喜は生まれは水戸藩。
慶喜の父、徳川斉昭で、なんと言うかラウドスピーカー、頑固、政治に口を挟みたい、女性好き…といった人でしが、このお父さんも
「うちの7男、すっごく頭いいかも もしかして、自分将軍のパパになれちゃうかも」
と、慶喜を御三卿の1つ一橋家へ養子に出します。
その方が将軍レースに近づくからです。
御三卿とは「田安」「一橋」「清水」で、8代・9代から分家した大名で、将軍家の身内でもあります。
宗家や御三家に跡取りがいなくなれば、輩出することになっていました。
12代の血を引いている病弱な家定、水戸からその英邁さを轟かせ東京(江戸)にやってきていた慶喜。
「頭がいいだけでなく顔もいい!」というのは全国的に知られていました。
結局、13代は家定となりましたが、それでも慶喜パパの斉昭や薩摩の島津斉彬などは
「14代こそ、慶喜を」
と、望んでいました。
島津斉彬は分家の姫を養女とし、さらに彼女を公家の近衛家に養女に出させ、そこから13代の家定の御台所(正室)としました。
彼女が「篤姫(天璋院)」です。
彼女を通して時期将軍に「慶喜」をプッシュしようとしました。
雄藩も自分たちが政権を取れれば最高なのですが、そうできないのなら自分たちの傀儡政権が欲しかったのです。
慶喜は自分のパパやおじさん(島津)たちがワイワイしているのを小さい頃から見ていましたら、
「誰がこの時局に将軍になったって上手く行きっこない」
と、幕府では目立たないようマイペースで、定時で上がる会社員のように無難に勤めていました。
1858年、家定は在位4年で亡くなり、結局、14代には御三家の紀州徳川家から来た家茂となりました。
この時、家茂はまだ13歳の若さです。
一橋慶喜26歳は将軍後見職・禁裏御守衛総督となりました。
4年後の1862年、公武合体構想のため、孝明天皇の妹、和宮親子(ちかこ)内親王が降嫁し、家茂の御台所となりました。
翌年1863年、将軍として229年ぶりに上洛し、天皇に攘夷を誓います。
この頃が京に全国から武士が集まり、賑わっていた頃です。慶喜も京にいました。
前ブログに書きましたように、「朝敵」とされた長州に対し、第一次長州征伐、第二次長州征伐が繰り広げられます。
この1866年、第二次の途上、家茂は病で大坂で亡くなります。20歳でした。
確かにかっこいいよね
話が大変長くなりましたが、慶喜の人生を語るには、将軍になる前の状況が大切です。
1864年に将軍後見職を辞任してからは、京で朝臣として御所守備をしていました。
1866年12月、第15代将軍として就任。
翌年の1867年10月、倒幕の密勅を受け、「大政奉還」します。
12月には「王政復古の大号令」で、慶喜は激昂する会津藩・桑名藩をよそに、京から大坂城へ移ります。
慶喜は「尊王」の水戸藩出身。
朝廷に政権を返上し、新しい政府で職に就けばよし、と考えます。
天皇の下で諸侯会議を開き、国家首班となり徳川を温存させようと思います。
武力を持ってこれに逆らおうなどとは考えていませんでした。
ところが、若い祐宮(さちのみや、のちの明治天皇)の後ろ盾となっていた岩倉具視をはじめとする急進的公家は、幕府と薩長を両天秤かけ、どちらのカードを使おうかと考えます。
薩摩の西郷隆盛や大久保利通は、なんとしても武力で幕府を完全に倒したいと願っていました。
そのため、慶喜のいない江戸城に攘夷討幕派浪人を使って、略奪などちょっかいを出し、武力衝突の引き金にしようとします。
「くれぐれも慎重に、そそのかされないように」
と注意していた幕府でしたが、騒乱が度重なったことから、ついに攘夷討幕派浪人をかくまっていた「薩摩藩邸を焼き討ち」にしてしまいます。
これで西郷・大久保の軍事行動の口実が整いました。
さらに翌年の1868年1月「鳥羽伏見の戦い」が始まります。
薩摩・長州・土佐の新政府軍との幕府軍の戦いです。
ここから戊辰戦争は始まり、国内内戦が広がっていくのでした。