大英帝国の19世紀 ⑬ 東方問題と2つの戦争 | BEYOND BORDERS

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19世紀、盛んに世界進出に繰り出すイギリス。

 

中国でのアヘン戦争・太平天国の乱・第2次アヘン戦争、イギリスでのシパーヒーの乱という大きい戦いだけでなく、もう1つ大きい戦争に乗り出しています。

(いったいどれだけ戦争しているのか?この「大英帝国のー②」に戻ってもう一度確認しましょう!

戦争にしても、海軍力保持にも非常にお金がかかります。

このお金を捻出するのに利用したのが「アヘン売買」ということです。) 

 

 

オスマン帝国は地図でご覧いただければおわかりのように、後にロシア・ソ連領、現ウクライナ領となっている黒海の北側も領有していました。この地をめぐる争いで、オスマン帝国とロシアは幾度となく争いが続きます。

 

黒海北側にある「クリミア半島」はロシアにとって、地中海へ出るための大切な「不凍港」、軍事基地です。

ソ連が瓦解し、次々に旧ソ連領から独立国が登場しましたが、クリミアを含め大切な軍事基地・宇宙基地などは未だロシアの飛び地となり、ロシアの管轄下にあります。

カザフスタンのバイコヌール宇宙基地(←元はICBMの発射基地でした)もロシアは年間使用料を支払い、租借しています。

 

もう一度前々回のブログ、オスマン帝国内の独立運動とロシアの南下について見直して下さい。

「東方問題」です。

 

ここにおいてロシアとオスマン帝国との戦いが2度起こります。

 

1度目は「クリミア戦争」(1853年3月~1856年3月)です。

 

 

1853年、ロシアはオスマン帝国領内のギリシア正教徒の保護の名目で侵入します。

しかし、イギリス・フランス・サルデーニャ王国がオスマン帝国側につき、ロシアは破れます。

近代史上、大規模な戦争となり、両側に多くの死者を出しました。

 

 

次は「オスマン・ロシア戦争(露土戦争)」(1877年4月~1878年3月)です。

 


ロシアはオスマン帝国に勝ち、「サン=ステファノ条約」を結びます。

この条約でブルガリアの自治と、オスマン帝国領内のルーマニア・セルビア・モンテネグロの独立が認められます。

こうしてロシアはバルカン半島へ勢力拡大を果たします。

ここまでくれば地中海への出入りも簡単になります。

 

 

これを黙って見過ごすをヨーロッパ列強ではありません。

 

1878年「ベルリン会議」を開きます。

イギリスとオーストリア(当時は今より大帝国で広大な領土を持っていました)が「サン=ステファノ条約」に反発し、ドイツのビスマルクを調停役とし、ロシアの南下を阻止しました。

「ベルリン条約」において

 オーストリア ボスニア・ヘルツェゴビナ

 イギリス    キプロス島

 

の領有が認められました。