長野県諏訪市の高島城です。
高島城は松江城(宍道湖)、膳所城(琵琶湖)と並ぶ日本三大湖城のひとつで、昨年「続日本100名城」に選定されま
現在見ることのできる高島城は豊臣秀吉の家臣日根野高吉が、文禄元(1592)年から慶長3年(1598)年まで足かけ7年にわたって 築城しました。しかし、関ヶ原の戦い後に日根野氏は下野国に転封。代わって、もともとこの地方の豪族であり徳川方に属していた諏訪頼水が旧領に戻り、藩主となります。以後、10代270年間、諏訪氏の居城として明治まで存続します。
天守などは明治期までは残っており、古写真も存在していますが、明治8(1875)年に建造物もすべて破却、もしくは移築され、石垣と 堀のみが残されました。
現在の高島城跡は二の丸、三の丸が宅地となったものの、本丸には昭和45(1970)年に再建された天守のほか冠木門・角櫓などが復興され、高島公園として整備されています。
完成当時の高島城は周囲を湖水と湿地に囲まれ、まるで諏訪湖に浮かぶように見えたことから、別名「諏訪の浮城」と呼ばれました
北から衣之渡郭、三之丸、二之丸、本丸が一直線に並ぶいわゆる「連郭式」と呼ばれる縄張りで、本丸には三層三階の望楼型天守があげられました。
天守をはじめ主要な建物の屋根が瓦葺きではなく、こけら葺きだった ことも、高島城の特徴です。寒冷地である諏訪では通常の瓦では割れてしまうためだったといわれています。(現在の再建天守は色合いの近い銅版葺き)また湖畔の軟弱地盤に建てられていたことから石垣が沈下しないように大木で組んだ筏の上に石垣を積んでいたことが戦後の調査で明らかになっています。
高島城の定番アングルですが、訪れた時間が午後だったため、逆光
角櫓
天守と違って古写真もなかったことから、再建時に新規に設計された ものです。内部は茶室として使われています。
天守と違って古写真もなかったことから、再建時に新規に設計され
この冠木門と角櫓は木造で再建されています。
本丸にある三つの門のひとつ。この御川渡御門は名前のとおり、城主が諏訪湖に船で繰り出す門だったそうです。
現在は諏訪湖の湖岸から1キロ程度離れていますが、かつては「諏訪の殿様よい城持ちゃるうしろ松山前は海」と唄われたように
天守台の石垣は野面積みですが、稜線のところだけ加工した算木積みとなっています。また天守の大きさが天守台より幾分小さい感じで、天守台の端に余りがあります。昨年行った四国の宇和島城もそうでしたが、目いっぱいまで建てなかったのは何か理由があるのでしょうか。
天守1階のグッズコーナーに高島城のプラモデルが置いてありました。 こじんまりとした雰囲気はまさにプラモデルそのものです。