2018年1月2日火曜日

馬鹿なことを言う権利

妙な漫才師が討論番組に出演して、非常に陳腐な持論と詭弁を展開したことが話題です。非武装中立論だとか、沖縄は中国のものだとか、誰かを殺すぐらいなら殺される事を選択する等々の発言が批判されてますね。

まぁ確かにこれらも問題なんだけど、個人的にもっと酷いと思ったのはこちらの発言。




書き起こし:
「(自分は)視聴者の代弁者だから」
「みなさんこれテレビですよ。これは若い人からお年寄りまで見てるわけですよ。だから一から十まで聞く必要があるんですよ。」

自衛隊違憲論が何か分からない、などと、この手の議論をする上での最低限の前提すら知らず、それを批判されると「大多数の声」という架空の民意を持ち出し、自分が愚かな事を発言する権利を主張する。

人は社会的分業を行うもので、何かにつけ専門と専門外というのがあります。得手不得手があり、誰しも不得手な事があるのは、悪いわけでは無いと思います。憲法問題が理解できないなら出来ないでもいい。全くかまわない。

だけれども!
理解できていないということを笠に着て、理解していないがゆえに、己の無知ゆえに、その主張を声高に叫ぶ権利など無い。そんなもの言論の自由とは呼ばない。

この手の無知蒙昧な大衆に対して、スペインのオルテガ先生が「大衆の反逆」という本で的確に切り捨てています。


『人権』『市民権』のような共通の権利は、受身の財産、まったくの利益、恩恵であり、あらゆる人間が遭遇する運命からのありがたい贈物であり、その運命を享受するには、呼吸をし狂人にならないようにする以外なんの努力もいらない。(中公クラシックス版 p.74)
簡単に言えば、偶然かれの頭のなかにたまった空虚なことばをたいせつにして、天真爛漫だからとでもいうほか理解できない大胆さで、そういうことばをなににでも押し付けるのである。(中略)凡人が、自分は卓抜であり、凡庸でないと信じているのではなくて、凡人が凡庸の権利を、いいかえれば、権利としての凡庸を、宣言し押しつけているのである。(p.82)

自分が愚かであることを認識し、愚かであるがゆえの権利として、自分よりも優れた者に口を挟み、その議論を凡庸化させる有様。まさにオルテガ先生の批判した大衆そのもの。



そして、次はこの態度


書き起こし:
(自分の主張がいかに間違っているか指摘され)
「これって議論じゃないですか。これって議論でしょ。非武装中立でも良い面と悪い部分があるんですけど、今一斉に悪い部分を言ってるから、これ会話にならないから駄目です」

なんて酷い詭弁…。オルテガ先生はこう言います。


目が見えず耳が聞こえないにもかかわらず、かれらが口をだし、『意見』を押し付けないような社会生活上の問題は、一つもない。(p.84)
大衆的人間は、議論をすれば、途方に暮れてしまうだろうから、かれの外にあるあの最高の権威を尊重する義務を本能的に嫌うのである。したがって、ヨーロッパの『新しい』事態は、『議論をやめる』ことである。(p.87)

非武装中立がいかに問題か、と指摘している意見に反論があるならその非武装中立の良い面を自ら主張すべきなのを、詭弁を弄して、自分より優れた意見に耳を閉ざして己の意見を押し付け、より優れた意見を否定する。そうして議論そのものを否定する。

ああ。もう絶望したくなります。



オルテガ先生はこう書きます。

なんらかの問題に直面して、頭のなかにうまいぐあいに存在する考えで満足する者は、知的な面での大衆である。それに反して、まえもって努力して得られたのではなく、ただ頭のなかにあるものを軽んじ、かれの上にあるものだけを自分にふさわしいと受け入れ、それに達するために新たに背伸びをする人は、すぐれた人である。(p.79)

簡単にいえば、自分の頭に湧いてきた考えを重視せずより優れた意見に耳を傾け、そこに至るように謙虚に努力すべし、ということです。この漫才師にはその様子は一切伺えませんね。

僕自身も、現代人の一人として、こういった大衆的なものの呪縛から逃れられません。僕も明確にオルテガが批判した大衆人の一人です。しかし、それでも、こんな知的に不誠実な有様よりはいくらかマシであるとは自負します。

彼のような人物を他山の石とし、大衆的なものへの自らを律するための悪い見本とするべきだと、まさに凡庸さの戒めとして省みるべき事例だと思います。

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