2018年4月7日土曜日

偶像・西部邁

この記事この記事前回の記事の続き

歳を重ねないと見えない事ってあるもんだし、もう病気で体が動かなくなってしまったら気力も衰えて変節することってあると思うよ…。80近い老人の最後の最後、完全に体が動かなくなるまで高潔で無謬であり続ける事を求めるなんて、それを貫き通して死ぬことを求めるなんて、酷だと思うよ。

現代日本の思想にあれほど最後の最後の瞬間まで貢献し続けて、もうこれ以上行ったら自裁する事すらできなくなってしまう前に、誰かに少し手伝ってもらったとしたっていいじゃない。頑張り続けた爺さんの最後のワガママじゃないか。許してあげようよ。

自分も同じ歳まで生きて、同じ様な境遇に生き、同じような病気にかかり、同じだけこの国に貢献をし続けて、その上で西部邁以上に高潔さを貫き通せた人間だけが、西部邁を批判できるんじゃないの? そんな人この世にいるの? 西部邁だって人間だったって事だよ。

西部邁の、そんな人間的な弱さを認められずに、無謬な超人性を今際の際まで求めることこそ、カルト的であると僕は断言する。自殺幇助した弟子にもしカルト性があったとしたら、その人間西部邁としての弱さを否定するんじゃない? つまり、西部邁の最後に見せた弱さを否定する人にこそカルト性の萌芽があると僕は批判する。

最後の最後まで高潔であろうとしたけどなりきれなかった西部邁の弱さを手伝うという事こそ、西部邁の弱さを認め、非カルト的に、西部邁のあり方と向き合ったといえると思う。

もちろん、自分の弟子を罪人にしてしまったことは問題であるのは言うまでもない。そこは否定しないんだけど、だからこそ、そこが西部邁も人間であった、って事なんだ。

以前にこの記事で書いた、筒井康隆の「敵」は、実は今回の話を念頭において書いてた。周知の事実なので書いてもいいと思うけど、西部邁が本当に自殺の準備を進めていたという事は、本人も番組等でしばしば口にされてたし、公然の事実であったと思う。

渡辺儀助と西部邁はプロフィールを並べただけでもよく似ていて、80近い老人で、元大学教授で、奥さんに先立たれ、誇り高く生きるも、心身ともに衰えを日々実感している。そんな敬愛すべき爺さんです。もちろん細かい所では色々差異はあるけども。

一番大きな違いは、渡辺儀助は自裁の手筈をととのえ後は実行に移すのみであったが「敵」である耄碌に襲われ痴呆を発症し実行できなかったこと。西部邁は実行したこと。

西部邁が渡辺儀助みたいに、「呑便だらり」となってしまう自分に耐えられなかったとして、それを手伝った人がいるとして。そんな西部邁の人間らしさを、弱さを、可謬性を、認めてあげてもいいじゃない。それを否定して「西部邁が最後の最後で間違えた! 彼も言行の不一致ではないか!」と批判するなんて、優しくないよ。

僕は、偶像・西部邁を否定します。
そして、人間・西部邁を受け入れます。
その上で、超人であり続けようとした西部邁を心から尊敬します。

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