【社労士】最新の厚生労働白書よりも大事かもしれない白書-その1(戦前~昭和30年頃)【一般常識対策】

社会保険労務士試験合格を目指される皆様、こんにちは。

直前期を迎え、社労士試験最後の壁ともいわれる「一般常識」対策に着手しはじめようという方も少なくないとおもいます。

一般常識対策は次の3つに分類されます。

・労働統計対策→労働一般常識の選択式対策として
・労働系(労働経済白書など)の白書対策→労働一般常識の択一式対策として
・厚生労働白書→社会保険一般常識の択一式・選択式対策として

今回の記事では、「厚生労働白書」対策について触れたいと思います。

厚生労働白書の出題傾向

過去、選択式、択一式で多数の出題実績があり、本年も出題されると考えてよいでしょう。

厚生労働白書は毎年発刊されていますが、出題可能性が高いのは、試験の年の「前年」の白書です。
その年の白書の発刊時期は、例年、その年の本試験日前後になるため、出題されることはないためです。

例えば、令和3年の試験においては、出題されるとすると「令和2年版」の白書である可能性が相対的に高いです。

 

 

白書の内容

白書の次の3つに分類できます。出題可能性を星(★)の数で表すと

・過去のこと(我が国の社会保険の歴史を振り返ると)★★☆
・現在のこと(最近、こういう法改正をしました)★★★
・将来のこと(今後、こういう見直しが必要であろう)★☆☆

となります。

このうち、最優先の「現在のこと」を知る上では、最新の白書が最適です。

一方で、「過去のこと」を知る上では、最新の白書では最適とはいえないこともあります。
最新の白書における「過去のこと」の記述については、その年のテーマに応じて内容が変わるためです。
そこで、特に重要となる「社会保険の歴史」というものを網羅的に知る上で、最適な白書をご紹介したいと思います。

それは「平成23年版厚生労働白書」です。

平成23年版厚生労働白書とは

平成23年版厚生労働白書のテーマは「社会保障の検証と展望~国民皆保険・皆年金制度実現から半世紀~」です。

国民皆保険・皆年金制度がスタートした昭和36年4月から50周年という節目の年にふさわしいテーマですね。

この年の白書では、我が国の社会・経済情勢の動向と社会保障の発展の歩みを絡めた骨太の内容になっています。

その内容の抜粋を以下ご紹介します。

一度に読もうとすると眠くなるので(笑)、少しずつ読み進めるのがポイントです。

時代のニーズに対応した社会保障制度の発展を振り返る

日本の社会保障制度は、医療保険や年金保険に代表される保険の仕組みを用いた社会保険方式と、生活保護等に代表される公費財源による公的扶助方式とに大別できるが、生活困窮対策が中心であった戦後復興期の一時期を除けば社会保険方式を中核として発展を遂げ、今から50年前の1961(昭和36)年にすべての国民が医療保険及び年金による保障を受けられるという画期的な「国民皆保険・皆年金」を実現した。

国民皆保険・皆年金を中核とする日本の社会保障制度は高度経済成長を背景に拡充を続け、1973(昭和48)年の「福祉元年」を迎えた。
しかし、同年の第1次オイルショック以降今日まで、人口の高齢化等に対応すべく、国民皆保険・皆年金体制を維持するための様々な改革が行われてきた。

ここでは、「国民皆保険・皆年金実現以前の社会保障制度」「国民皆保険・皆年金の実現」「制度の見直し期(昭和50年代から60年代)」「少子・高齢社会への対応」「経済構造改革と社会保障」「政権交代と社会保障」の 6 つの時代に区切って日本の社会保障制度の変遷を、その背景となる社会経済の状況等とともに解説する。

「国民皆保険・皆年金実現以前の社会保障制度」では、日本の社会保険の萌芽期を解説している。
1942(昭和17)年の英国のベヴァリッジ報告は社会保障制度の主要手段として社会保険を位置づけ、欧米諸国の福祉国家の考えの基礎となった。
日本でも、日本国憲法の制定により社会保障に対する国の責務が規定され、社会保障制度審議会も1950(昭和25)年の「社会保障制度に関する勧告」において社会保険を中核に社会保障制度を構築すべきとした。

ただし、医療保険も年金も、戦前から、工業化の進展に伴う労働問題の発生等に対応して、被用者保険を中心に制度化の動きが進んでいた。終戦直後は、生活困窮者への生活援護施策や感染症対策が中心となった。

「国民皆保険・皆年金の実現」の時代は、高度経済成長期を背景に社会保障の重点が「救貧」から「防貧」に移り、国民皆保険・皆年金を中心に日本の社会保障制度体系が整備された時代であった。
また、この時期に大企業を中心に日本型雇用慣行が普及・定着し、日本の社会保障制度の前提と位置づけられるようになった。

昭和30年代の初めには被用者保険の整備は進んでいたが、農家や自営業者などを中心に国民の多くが医療保険制度や年金制度の対象ではなかった。
そこで、1961(昭和36)年に地域保険である国民健康保険、国民年金にこれらの者を加入させることで国民皆保険・皆年金が実現し、以後、国民皆保険・皆年金は日本の社会保障の中核として発展していった。

高度経済成長期を通じ、医療保険、年金ともに給付が改善されるとともに、1971(昭和46)年には児童手当法が制定され、また1973(昭和48)年の「福祉元年」には、老人医療費の無料化のほか医療保険における高額療養費制度や年金の物価スライド制などが導入された。

「制度の見直し期(昭和50年代から60年代)」の時代においては、2度のオイルショックにより高度経済成長が終焉し、経済が安定成長に移行するといった経済社会の状況変化や、「増税なき財政再建」に対応することが課題であった。また、将来の高齢社会の到来に対応するために全面的な社会保障制度の見直しが行われた時期であった。

一連の見直しの中で、老人保健制度の創設、医療保険制度の被用者本人の1割自己負担の導入や退職者医療制度の創設、医療計画の制度化、全国民共通の基礎年金制度の導入などの見直しが進められた。

「少子・高齢社会への対応」の時代には、日本ではバブル経済が崩壊し、以降、経済の低成長基調が明瞭になった。
国際的には、経済のグローバル化が進行し、企業経営は厳しさを増した。
非正規労働者の割合が上昇し、日本の社会保障の前提となっていた日本型雇用慣行にも変化がみられるようになった。

この時期、高齢化が急速に進行し、「1.57 ショック」により少子化に対する関心が強まった。

こうした状況に対応して、ゴールドプランの策定、介護保険制度の創設、多様な働き方に対した法整備、年金支給開始年齢の引上げと定年延長に向けた施策、エンゼルプランの策定等が進められた。

「経済構造改革と社会保障」の時代には、急速な少子高齢化の進展により、総人口の伸びは鈍化し、超高齢社会が到来した。
本格的な経済グローバル化の進展などに対応すべく、規制改革等の構造改革が推進されたが、他方、格差の拡大やセーフティネット機能の低下も指摘され、 リーマンショックに際しては、「派遣切り」といった非正規労働者の解雇、雇い止め等が社会問題化した。

また、発行済国債残高が GDP を大きく上回るなど国の財政は危機的状況となり、毎年 1 兆円を超える自然増が発生する社会保障関連の予算編成は一層厳しい状況に陥った。「歳入・歳出一 体改革」では、2007年度からの5年間で1.1 兆円(毎年2,200 億円)の削減が求められた。

こうした中で、社会保障制度の持続可能性の確保を図るため、年金における保険料水準固定方式及びマクロ経済スライドの導入、医療保険における本人負担分の引上げ及び後期高齢者医療制度の創設などの制度の見直しが進められた。

「政権交代と社会保障」では、社会保障費の自然増から毎年2,200 億円を削減するとした方針が完全に変更され、診療報酬本体について 10 年ぶりのプラス改定の実施や子ども手当の支給等が行われた。

第 2 章では、第 2 次世界大戦前後から現在までをこの6つの時代に区切り、社会保障がどのような時代背景の中で発展してきたのか、とりわけ「国民皆保険・皆年金」といった社会保険制度を中心とした社会保障制度がどのような観点で見直されてきたのかをみていくことにより、社会保障制度が人口、雇用・経済状況、社会生活に密接に関係している姿を明らかにする。

国民皆保険・皆年金実現以前の社会保障制度

第2次世界大戦以前の社会保障制度

第2次世界大戦以前の社会情勢

世界初の社会保険は、ドイツで誕生した。
当時のドイツでは、資本主義経済の発達に伴って深刻化した労働問題や労働運動に対処するため、1883(明治16)年に医療保険に相当する疾病保険法、翌1884(明治17)年には労災保険に相当する災害保険法を公布した。

一方、日本では、第1次世界大戦(1914年~1918年)をきっかけに空前の好景気を迎え、重化学工業を中心に急速に工業化が進展し、労働者数は大幅に増加した。
一方で、急激なインフレで労働者の実質賃金は低下したほか、米価の急上昇により全国で米騒動が発生した。
また、第1次世界大戦後は一転して「戦後恐慌」と呼ばれる不況となり、大量の失業者が発生した。
このため、賃金引上げや解雇反対等を求める労働争議が頻発し、労働運動が激化した。

日本最初の医療保険の誕生

こうした中で、政府は、労使関係の対立緩和、社会不安の沈静化を図る観点から、ドイツに倣い労働者を対象とする疾病保険制度の検討を開始し、1922(大正11)年に「健康保険法」を制定した。
しかしながら、その翌年に関東大震災が発生したことから、法施行は1927(昭和2)年まで延期された。

健康保険法の内容は、①工場法や鉱業法の適用を受ける10人以上の従業員を持つ事業所を適用事業所とし、被保険者はその従業員で報酬が年間1,200円未満の肉体労働者(ブルーカラー)としたこと、②保険者は政府または法人とし、前者の場合は政府管掌健康保険、後者の場合は組合管掌健康保険としたこと、③保険給付は、被保険者の業務上、あるいは業務外の疾病負傷、死亡または分娩に対して行われたこと、④保険料を労使折半としたこと、⑤国庫は保険給付費の10%を負担すること等であった。

制度発足時の被保険者数は、1926(昭和元)年末で政府管掌健康保険が約100万人、組合管掌健康保険が約80万人であった。

その後、常時10人以上を使用する会社や銀行、商店等で働く「職員」ホワイトカラー)を被保険者とする職員健康保険法が1939(昭和14)年に制定されたが、1942(昭和17)年の健康保険法改正で同法と統合され、家族給付等が法定化されたほか、診療報酬支払点数単価方式が導入された。

なお、後述のとおり、船員については1939(昭和14)年に医療保険を含む総合保険である船員保険制度が創設された。

国民健康保険法の制定と厚生省の発足

大正時代末期の戦後恐慌に引き続き、昭和に入ってからも1927(昭和2)年の金融恐慌、1929(昭和4)年に始まる世界恐慌の影響を受けて昭和恐慌が相次いで発生した。
また、東北地方を中心に大凶作等が発生し、農村を中心とする地域社会を不安に陥れた。
困窮に陥った農家では欠食児童や婦女子の身売りが続出し、大きな社会問題となった。農家は赤字が続き、負債の多くを医療費が占めていた。

そこで、当時社会保険を所管した内務省は、農村における貧困と疾病の連鎖を切断し、併せて医療の確保や医療費軽減を図るため、農民等を被保険者とする国民健康保険制度の創設を検討した。
その後、1938(昭和13)年1月に厚生省が発足し、同年4月には「国民健康保険法」が制定され、同法は同年7月に施行された。
国民健康保険の保険者は、組合(普通国民健康保険組合・特別国民健康保険組合)単位で設立することができたが、その設立も加入も基本的に任意であった。
また、保険給付には療養、助産・葬祭給付があり、その種類や範囲は組合で決めることができるとされた。

国民健康保険は、先進国に前例のある被用者保険と異なり、日本特有の地域保険としての性格を有していた。
国民健康保険の誕生は、日本の医療保険が労働保険の域を脱し国民全般をも対象に含むこととなり、戦後の国民皆保険制度展開の基礎が戦前のこの時期に作り上げられたことを意味した。

戦前における国民皆保険運動の展開

日本はその後、戦時体制に突入することとなるが、健兵健民政策を推進する厚生省は、「国保なくして健民なし」として同制度の一層の普及を図ることとした。
このため、1942(昭和17)年には、地方長官の権限による国民健康保険組合の強制設立や、組合員加入義務の強化などを内容とする国民健康保険法の改正が行われた。
これを機に国民健康保険の一大普及計画が全国で実施され、その結果、1943(昭和18)年度末には、市町村の95%に国民健康保険組合が設立された。1945(昭和20)年には組合数10,345、被保険者数4,092万人となったが、組合数の量的拡大は必ずしも質を伴うものでなく、戦局悪化のため皆保険計画は目標どおりには進まなかった。
また、療養の給付についても、医薬品や医師の不足により十分には行われなくなった。

日本最初の公的年金制度の創設

日本における最初の社会保険が健康保険制度であるのに対し、年金制度の源流は、軍人や官吏を対象とする恩給制度から始まった。
1875(明治8)年に「陸軍武官傷痍扶助及ヒ死亡ノ者祭粢並ニ其家族扶助概則」及び「海軍退隠令」、1884(明治17)年に「官吏恩給令」が公布され、1890(明治23)年にはそれぞれ「軍人恩給法」「官吏恩給法」に発展した。
また、教職員や警察官等についても、明治中期から後期にかけて恩給制度が設けられた。これらの恩給制度は、1923(大正12)年に「恩給法」に統一された。
このほか現業に携わる公務員に対しては、明治末期から共済組合制度が次々に創設された。

その後、戦時体制下になり、国防上の観点で物資の海上輸送を担う船員の確保が急務であったこと等から、船員を対象とする「船員保険制度」が1939(昭和14)年に創設された。
船員保険制度は、政府を保険者、船員法に定める船員を被保険者とし、療養の給付、傷病手当金、養老年金、廃疾年金、廃疾手当金、脱退手当金等を給付する制度で、年金保険制度のほか医療保険制度等を兼ねた総合保険制度であった。
船員保険制度における養老年金及び廃疾年金は、社会保険方式による日本最初の公的年金制度となった。

厚生年金保険制度の創設

船員保険制度の創設を受けて、船員を除く被用者に対する公的年金制度の創設が検討され、1941(昭和16)年に工場で働く男子労働者を対象とした「労働者年金保険法」 が公布された。
労働者年金保険の内容は、①健康保険法の適用を受けた従業員10人以上の工業、鉱業及び運輸業の事業所で働く男子労働者を被保険者としたほか、②保険事故は、老齢、廃疾、死亡及び脱退とし、それぞれに対し養老年金(資格期間20年で支給開始55歳)、廃疾年金、廃疾手当金、遺族年金及び脱退手当金の5種類が給付された。保険料は、健康保険と同様労使折半で負担することとされた。

その後、労働者年金保険は、戦局悪化に伴う雇用構造の変化に伴い、1944(昭和19)年に女子や事務職員、適用事業所規模も従業員5人以上に適用対象が拡大され、 名称も「厚生年金保険」と改められた。

このように公的年金制度が設けられるに至った理由としては、資本主義の発展に伴い労働力を合理的に保全するため、健康保険制度の創設等に続き、長期保険による労働者保護を行うことが必要と認められてきたことがあげられる。
また、当時の時代背景として「一台でも多くの機械を、一かけでも多くの石炭を増産してもらいたい」といった戦時体制下における生産力の拡充、労働力の増強確保を行うための措置の一環としての要請があった。
さらに、インフレ防止の見地等からの保険料を納付させることによる強制貯蓄的機能が期待されていた。

速攻チェック

【空欄】の部分にカーソルをあてると(スマホでは指でなぞると)解答が浮かび上がります。

①世界初の社会保険はドイツで誕生した。
②政府は、労使関係の対立緩和、社会不安の沈静化を図る観点から、ドイツに倣い労働者を対象とする疾病保険制度の検討を開始し、1922(大正11)年に「健康保険法」を制定した。
③日本における最初の社会保険が健康保険制度であるのに対し、年金制度の源流は、軍人や官吏を対象とする恩給制度から始まった。
④その後、戦時体制下になり、国防上の観点で物資の海上輸送を担う船員の確保が急務であったこと等から、船員を対象とする「船員保険制度」が1939(昭和14)年に創設された。
⑤労働者年金保険は、戦局悪化に伴う雇用構造の変化に伴い、1944(昭和19)年に女子や事務職員、適用事業所規模も従業員5人以上に適用対象が拡大され、 名称も「厚生年金保険」と改められた。

スマホの種類によっては指でなぞっても表示されないようです。その場合は以下の解答をご覧ください。

”解答”
ドイツ
健康保険法
恩給制度
船員保険制度
厚生年金保険

第2次世界大戦後の復興と生活困窮者対策

終戦直後の情勢

太平洋戦争末期の1945(昭和20)年、日本は壊滅的な状態にあった。戦災により都市住宅の3分の1を焼失し、日本全体では、工場設備や建物、家具・家財など実物資産の4分の1を失った。主要経済指標について戦前期と終戦直後を比べてみると、一人当たり実質個人消費は6割弱に低下し、一人当たり実質国民総生産も6割程度にすぎなかった。

とりわけ終戦直後は失業問題が極めて深刻であり、1945年11月の復員及び失業者数の推計は1,342万人で、これは、全労働力の30~40%に当たる人数であった。加えて、同年11月には連合国軍総司令部(以下「GHQ」という。)の軍人恩給停止命令が発せられ、生活困窮者が増大した。

こうした中、GHQは労働の民主化を推し進め、これを受けて1945(昭和20)年に労働者の団結権、団体交渉権、争議権を保障した「労働組合法」が、1946(昭和21)年に労働争議の調整手法などを定めた「労働関係調整法」が制定された。
また、日本国憲法第27条第2項で「賃金、就業時間、休息その他の勤労条件に関する基準は、法律でこれを定める」と明記されたことを踏まえ、1947(昭和22)年4月には、最低労働条件を定めた「労働基準法」が制定され、同年9月には労働省が設立された。
さらに、労働基準法の制定を契機として、同年に「労働者災害補償保険法」が制定され、労働者災害補償保険制度が創設された。この結果、業務上災害の保険事故が健康保険法の対象から除外されることとなった

一方、終戦直後の混乱の中で、国民の生活環境及び衛生状態は良好な状態でなく、また生活水準も低く栄養状態も悪かったため、結核等の感染症の蔓延が国民の健康を著しくむしばんでいた。
こうした中、1948(昭和23)年の予防接種法に続き、ストレプトマイシン等化学療法の出現を背景として、1951(昭和26)年には新結核予防法が制定される等、医学の進歩を踏まえた感染症の予防対策が推進された。

公的扶助三原則と旧生活保護法

終戦を機として社会経済情勢が一変し、特に戦災、引き揚げ、失業、インフレ、食糧危機等によって救済を要する国民が急激に増加した。
このような事態に対し、戦前期に創設された当時の公的扶助制度は、救護の程度、方法が各法制度によって異なっており、強力な救済措置が望めない状況であった。

そこで政府は「生活困窮者緊急生活援護要綱」(援護要綱)を1945年12月に閣議決定し、応急的な救貧措置を実施した。
また、GHQによる国家責任の原則無差別平等の原則最低生活保障の原則という「公的扶助三原則」の指令を受け、援護要綱に代わる恒久的な措置として、旧「生活保護法」が1946(昭和21)年に制定された。一方、救護法、母子保護法等の公的扶助法は、旧生活保護法に一本化される形でいずれも廃止された。

日本国憲法の制定と福祉三法体制の整備

1946(昭和21)年11月に日本国憲法が公布された。
憲法では第11条に基本的人権の尊重が、第13条に幸福追求権が規定されるとともに、第25条に「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」とする「生存権」が初めて規定された。
また、「国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない」と国の責務が同条に明記されたことから、生存権の理念に基づき新たな制度が整備されていくこととなった。

憲法第25条や公的扶助三原則との関係で、旧生活保護法の欠格条項の存在や、国家の責任で行うべき生活保護法の適用に関して、当時、民間の篤志家である民生委員の活用を前提としていたことがGHQより問題視された。
このため、旧生活保護法は廃止となり、代わって新「生活保護法」(1950年以下「新生活保護法」という。)が制定された。また、新生活保護法に基づき、民生委員に代わり有給の公務員である社会福祉主事が設置された。
また、戦災孤児や傷痍軍人等の増大を受けて、「児童福祉法」(1948年)、「身体障害者福祉法」(1949年)が制定された。
また、「社会福祉事業法」(1951年)の制定により、公的な社会福祉事業と民間の福祉事業との関係性が明確にされたほか、憲法第89条(公の財産の支出又は利用の制限)に対応して社会福祉法人制度が創設され、社会福祉の第一線機関として福祉事務所が設置されることとなった。
生活保護法児童福祉法身体障害者福祉法の三法を「福祉三法」と呼ぶが、福祉三法と社会福祉事業法の制定によって、福祉三法体制が整備された。

失業保険制度の創設

新生活保護法では、労働能力の有無を問わず適用を認めたことから、失業者の多くが法の適用を受けることにより、財政問題の発生や、新生活保護制度の悪用が懸念された。また、ドッジラインによる緊縮財政で失業者の大量発生が予測された。
こうしたことを踏まえ、1947(昭和22)年に「失業保険法」が制定され、日本初の失業保険制度が創設されることとなった。

失業保険制度が創設された結果、失業者の生活が単に公的扶助制度だけでなく、失業保険という労働保険制度を通しても保障されることとなった。その後、1949(昭和24)年5月には日雇労働者にも適用が拡大された。

社会保障制度審議会「社会保障制度に関する勧告」

1947(昭和22)年、GHQの招聘により来日したワンデル博士を団長とするアメリカ社会保障制度調査団の調査報告書に基づき、1948(昭和23)年12月に社会保障制度審議会が設立された。社会保障制度審議会は首相の直轄とされ、国会議員、学識経験者、関係諸団体代表及び関係各省事務次官40名で構成された。
同審議会は1950(昭和25)年に「社会保障制度に関する勧告」を発表した。この勧告の内容は、①各種の社会保険、公的扶助、社会福祉、児童福祉等の諸制度の総合的な運用、②被用者関係の社会保険制度の統合、適用拡大、給付改善などであった。
同勧告は、日本の社会保障の青写真を提示し、「国民健康保険制度の全国民への適用」、いわゆる「国民皆保険」を提唱した。また、社会保障の中心を社会保険方式によることを主導した。

コラム

【社会保障制度に関する勧告に影響を与えたベヴァリッジ報告】
第 2 次世界大戦後の英国の社会保障制度の設計ばかりでなく、広く欧米諸国の福祉国家の考えの基礎となった英国の「ベヴァリッジ報告」(1942年)では、職域や地域を問わない全国民による均一の保険料拠出・均一の給付という社会保険(後に国民保険法として制度化が図られる)を社会保障の主要手段として、国民扶助(生活保護)と任意保険を補助的手段とする旨を提唱した。これは、資力調査があり、スティグマ(汚名)がつきまとう 社会扶助よりも、一定の拠出を要件として普遍的な性格を持つ社会保険の方が自立した自由な個人にふさわしいと考えたからであった。

1950年の社会保障制度審議会「社会保障制度に関する勧告」も、「ベヴァリッジ報告」を踏まえ「国家が(中略)国民の自主的責任の観念を害することがあってはならない。その意味においては、社会保障の中心をなすものは自らをしてそれに必要な経費を拠出せしめるところの社会保険制度でなければならない」と、社会保険中心主義を提唱した。

現在では、社会保障給付費の約9割を社会保険制度による給付が占め、社会保険制度は社会保障制度の中核となって現在に至ってい る。

 

国民健康保険の財政基盤の確保

戦後復興期の医療保険をめぐる状況は、終戦直後の急激なインフレ等によって保険診療が敬遠され、国民健康保険は制度破綻の危機に直面していた。
戦後の社会的、経済的混乱により、国民健康保険を休止又は廃止する組合が続出し、終戦2年目の1947(昭和22)年には、組合数5,619、被保険者数2,786万人と1945年に比べ約半減した。

このため、国民健康保険の財政基盤を強化する観点から、1948(昭和23)年に国民健康保険法が改正された。
主な改正点は、①国民健康保険制度の実施主体を従来の国民健康保険組合から原則として市町村としたこと(市町村公営の原則)、②いったん設立された場合は、その市町村の住民の加入は強制とされたこと(被保険者の強制加入制)等である。
また、1951(昭和26)年にも国民健康保険法の改正により、国民健康保険税が創設され、保険料でなく税で徴収することも可能となり財政基盤が強化された。

その後、日本経済の復活等も加わり、保険診療が急速に増加するに至ったことから再び保険財政の立て直しが急務となったが、1953年の国民健康保険法の改正によって助成交付金の名で事実上の国民健康保険に対する国庫補助が実現し、1955(昭和30)年には国庫補助が法制化された。

新厚生年金の創設

終戦直後の経済混乱の中、急激なインフレによって労働者の生活は苦しくなり、厚生年金保険料の負担も困難となった。
また、積立金の実質的な価値が減少し、将来の給付のための財源とならなくなってしまうなどの問題が生じていた。このため、1948(昭和23)年の厚生年金保険法の改正では、保険料率を約3分の1に引下げる等の暫定的な措置がとられた。
また、1954(昭和29)年の同法改正においては、前年12月に戦時加算のある坑内員の養老年金受給権が発生することに備え、年金の体系について全面的な改正が行われた。

それまで報酬比例部分のみであった養老年金を定額部分と報酬比例部分の二階建ての老齢年金とし、男子の支給開始年齢を55歳から60歳に段階的に引上げることとした。加えて、急激な保険料の増加を避けるため、平準保険料率よりも低い保険料率を設定し、その際、保険料率を段階的に引上げる将来の見通しも作成することとした。これらの改正は、現在の厚生年金制度の基本体系となるもので、当時は「新厚生年金制度」といわれた。

さらに、財政方式を積立方式から修正積立方式に変更し、国庫負担を導入した。
その際、「保険料率は、保険給付に要する費用の予想額並びに予定運用収入及び国庫負担の額に照らし、将来にわたって、財政の均衡を保つことができるものでなければならず、且つ、少なくとも5年ごとに、この基準に従って再計算されるべきものとする」との規定が盛り込まれ、5年に1回は財政再計算を行うことが制度化された。

今後逐次加筆していきます。

【社労士】最新の厚生労働白書よりも大事かもしれない白書-その2【一般常識対策】

 

執筆/資格の大原 社会保険労務士講座

金沢 博憲金沢 博憲

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