chinese-biele

 パッと見、メルヘンチックなお屋敷やろ。
 ドイツ統治時代を少し下って建てられたモンやさかい、もうすでに100年ぐらい経ってる『老房子』(古い建物)のひとつ。
 今は幼稚園として使われてるねんけど。
 それでも、この建物が歩んできた歴史を考える時に無視できひんのが今から60年ぐらい前、かつてこのお屋敷に住んだ一人のアメリカ人のコト。
 今回は、いつになくマジメな雰囲気の話をしてみよっかな。

 このお屋敷を別荘として購入した、そのアメリカ人のお名前は「ジョン・レイトン・スチュアート」(1876-1962)。

 彼は中国生まれのアメリカ人でな、中国名は『司徒雷登』
 中国の近代史について詳しいおヒトなら、彼の名前を知ってはるのかも。
 彼は、中国では名前が知られたアメリカ人のうちの一人やねんで。

 ナンでそないに有名なのかって言うと、それは彼が中国を去るコトになった1949年に、かの首席『毛泽东』(毛沢東)『别了,司徒雷登』(さらば、レイトン・スチュアート)という題の論文を発表したから。
 世界近代史のビッグネームから名指しやなんて……スチュアートさんって、一体どないなおヒトやったのやろか?
 
 彼の一生をたどってみよっか。

 スチュアートさんは、杭州に滞在してたアメリカ人夫婦の間に生まれはってん。
 両親は米国の合衆国長老教会の宣教師やったさかい、ご本人も宣教師であり教育者やったのや。
 スチュアートさんは、当時、欧米人きっての「中国通」として有名なヒトやったから、1919年には燕京大学の学長にまでならはったのやて。
 
 やがて太平洋戦争が始まると、山東省の『潍县』(現在の『潍坊』)にあった日本軍の外国人キャンプに収容。
 終戦後、民国の時代となって、その知識と経験から、アメリカ公使に抜擢されて、重要な交渉事をたくさん任されはるコトに。
 1949年、中華人民共和国建国の数ヵ月前には、アメリカ本国からの召還命令を受け入れて「帰国」。

 終戦直後の米中関係は、この場では書き切れんほど、(現在よりもさらに)とっても複雑やったのや。
 先に述べた毛沢東の論文中において彼は「米国の侵略が失敗した象徴」とまで書かれて非難されてしもたのや。

 1962年に米国・ワシントンで死去。
 ……けど、人生の大半を中国で過ごしはったお人やさかい、アメリカに「帰国」したって表現はいささか正確ではナイのかも。
 ナニしろ彼は、自分が死んだのちは遺骨の一部を、幼少のころに過ごした杭州に撒いて欲しいと遺言を残してたほど。
 ちなみに、彼のその遺言が叶い、杭州に遺骨の一部が戻されたのは、死後約半世紀を経た2008年のコトやったのやって。
 
 スチュアートさんとチンタオの接点は1947年——71歳の時のコト。
 「青島海軍基地機密協定」を取りまとめるためにチンタオを訪れ、その際にこのお屋敷を別荘として買い取って滞在先としはったのやて。
 この協定が締結結されるきっかけとなったのは、チンタオで現地の人力車の車夫がアメリカ人水兵に殺害されるって事件があったからなワケやけど。
 けど、彼はナンで屋敷を借りずに、わざわざ購入しはったのやろうか?
 スチュアートさんは、最初から協定締結の交渉が難航すると踏んではったのやろうか?
 はたまた、偶然訪れたチンタオをいたく気に入らはったからなのやろうか?

 今やもう確かめることのできん謎やね。

 今日はここまで。
 それでは皆さん、『别了!』(さらば!) 


公開:17/01/01
おかげさまで、二冠達成! 
「にほんブログ村ランキング」
「人気ブログランキング」
《中国語部門》
(2017.9.21現在)
引き続きの応援ヨロシクでっせ!
 
にほんブログ村 外国語ブログ 中国語へ