遙かなる透明という幻影の言語を尋ねて彷徨う。

現代詩および短詩系文学(短歌・俳句)を尋ねて。〔言葉〕まかせの〔脚〕まかせ!非日常の風に吹かれる旅の果てまで。

昭和歌謡曲の軌跡

2017-12-13 | 昭和歌謡曲の軌跡
■浪曲調歌謡の復権

昭和32年12月10日、伊豆天城山中で、学習院大学生であった愛親覚羅慧生と同級生
大久保武道のピストルによる心中死体が発見された。もと満州皇帝薄儀の弟を父とした慧生であったため、大久保との結婚をゆるされなかったことが原因であった。

二人の間に交わされた書簡集『われ御身を愛す』覇ベストセラーになったが、片方、講和後の消費革命の中で、戦争体験をもつ人々は忘れていた過去を苦く思い出した。
たとえば32年1月30日に起こったジラード事件は日本人の感情を逆撫でするものであった。群馬県相馬村の村会議員の坂井利吉の妻「なか」が、米軍演習場に薬葵を拾いに行き、ウィリヤム・S・ジラード特技二等兵に射殺された事件である。

詳しく述べる余裕はないが、結局のところアメリカ最高裁が軍法会議において身柄引き渡しを拒否したが、アメリカ最高裁がこの判決を棄却したのでジラードは前橋地裁法廷に立っことになる。日本の抱えている様々の問題を浮き彫りにした事件であった。

若者たちは太陽族映画に自らの鬱積した感情を同調させ、ロカビリーの喧噪に酔ったけれども、中年層や地方居住者たちは自らに感情を代弁する術をもたなかった。
そうした人々を基盤にこの時期の流行歌に登場したのが、浪曲から転身した歌手であった。

昭和30年前後のラジオ番組には浪曲が大きな比重を占めていた。
20分から30分をかけてじっくり聞く習慣が、多様なレジャー形態が生まれた〝余暇時代〟に入って次第に廃れてはきたが、その底に流れる義理人情の世界を、流行歌という形式を借りて訴える歌手が出現するのは当然のことと言っていいだろう。

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