遙かなる透明という幻影の言語を尋ねて彷徨う。

現代詩および短詩系文学(短歌・俳句)を尋ねて。〔言葉〕まかせの〔脚〕まかせ!非日常の風に吹かれる旅の果てまで。

伊東静雄ノート4

2017-10-14 | 心に響く今日の名言
「彼は詩集を出す時、いつも題名に非常に苦心するのが常だった。『夏草』のもとの名は「朝顔・その他」だし、河出書房の現代詩人全集に入れる時、考えた名は「光耀」「拒絶」「夜の葦」である。」と、述べているのは富士正晴である。伊東のよき理解者でもあった富士氏が簡単な年譜を書いている。ここで写しておきたい。



伊東静雄は明治三九年一二月一〇日長崎県の諫早に生まれ、昭和二八年三月十二日
国立大阪病院長野分院で死亡した。その著書は
 詩集『わが人に与ふる哀歌』(昭和一〇年一〇月 コギト発行所)
詩集『夏草』(昭和十五年三月 子文書房)
 詩集『春のいそぎ』(昭和十八年九月 弘文堂書房)
 詩集『反響』(昭和二二年一一月 創元社)
以上が生前、そして生前に出るようにと思ってはいたが、彼の死が先立ったものに
『伊東静雄詩集』(昭和二八年七月 創元社))

これですべてである。(以上『現代詩読本(思潮社版』)より)

自覚して運命を受容するのだという。その自覚的生活が詩人を決定つけるという。運命論については、何処まで肯定していいのかわからないのだけれど、詩人という自覚的な生活について自己規制をするという意味なら理解できる。

いかなれば今歳の盛夏のかがらきもうちにありて、
  なほきみが魂にこぞの夏の日のひかりのみあざやかなる。

夏をうたはんとては殊更に晩夏の朝かげとゆふべの木末をえらぶかの蜩の哀音を、
いかなればかくもきみが歌はひびかする。

いかなれば葉広き夏の蔓草のはなを愛して會てそをきみの蒔かざる。
會て飾らざる水中花と養はざる金魚をきみの愛するはいかに。     (「いかなれば」全行)

「いかなれば」という詩にも仮定の以外の負性のようなものを感じられるだろうか。そしてそれは日本の近代詩が負性のようにかかえている,言い換えれば詩人を取り巻く宿命のようなものの側面を時代的にとらえているものではないかと思えてしかたがない。いま伊東のやってくるまでの詩人に思いをいたしてみよう。




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