遙かなる透明という幻影の言語を尋ねて彷徨う。

現代詩および短詩系文学(短歌・俳句)を尋ねて。〔言葉〕まかせの〔脚〕まかせ!非日常の風に吹かれる旅の果てまで。

中原中也ノート④

2017-09-20 | 近・現代詩人論


  2

奉仕の気持になりはなったが、
さて、格別の、こともできない。


そこで以前より、本なら熟読。
そこで以前より、人には丁寧。

  
テンポ正しき散歩をなして
麦桿真田を敬虔に編み――


まるでこれでは、玩具の兵隊、
まるでこれでは、毎日、日曜。


 さらに作品は続く(神社の日向を、ゆるゆる歩み、/知人に遇えば、にっこり致し、//飴売爺々と、仲良しになり、/鳩にまめなぞ、パラパラ蒔いて、//まぶしくなったら、日蔭に這入り、/そこで地面や草木を見直す。//苔はまことに、ひんやりいたし、/いはうやうなき,今日の麗日。//参詣人等もぞろぞろ歩き、/わたしは、腹がたたない。)

《まことに人生、一瞬夢、/ゴム風船の、うつくしさかな》

 だから、この作品に共感することは難しくないと述べている。
 中村稔は「中原中也の詩の出発をかりに「寒い夜」の自画像」に認めるとすれば、「春日狂想」にその到達点を見るべきだろう」とも述べている。それは詩を書くことは彼にとっていかに生きるべきかの告に他ならないことをみいだした。ことだという。その真摯な告白が中也の詩作の最も主要な、系譜を形作っている、といようか。
 この詩を書いた一ヶ月後に,中也はは小林秀雄とともに妙本寺の海棠の花をみにいっている。晩年の詩人の姿は小林の「中原中也の思ひ出」にえがかれているところである。その半年後に中也はこの世を去った。
中原中也が三十歳でなくなってからすでに七十数年たっている。私は中也の初期の作品で最もよく知られている「サーカス」の、それは童謡風であるが、どこかもの悲しく、わびしく、なんとなくやるせない、あの旋律が私の心を今でも引きつけてやまない。

  幾時代かがありまして
  茶色い戦争がありました

  幾時代かがありまして
  冬は疾風吹きました

  幾時代かがありまして 
  今夜此処での一殷盛り

  サーカス小屋は高い梁
  そこに一つのブランコだ
  見えるともないブランコだ

  頭倒さに徒を垂れて
    汚れ木綿の屋蓋のもと
  ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん

  それの近くの白い灯が
    安値いリボンと息を吐き

  観客様はみな鰯
    咽喉が鳴ります牡蠣殻と
  ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん

  野外は真っ闇 闇の闇
       夜は劫劫のノスタルヂアと
       ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん        (「サーカス」全行)


永遠の時間のながれのなかの人間のいとなみの言いようのないむなしさ、わびしさ。それは「ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん」とゆれる空中ブランコの音が象徴している。
 中也の幼年時代に軍人だった父の勤務の都合で広島、金沢に、転勤ですごした中也。後年に書いた「金沢の思い出」には、映画館の横の空地にあるとき軽業がかかって。父に連れられてそれを見に行ったと記している。またかつて鮎川信夫はつぎのようにのべている。

  「中也の詩の童謡的性格は技法的に、北原白秋の詩法をうけついでおり、精神的には高橋新吉のダ  ダイズムの作品からすくなからぬ影響をうけております。この混血の独特のリズムが、全く気質的  ・気分的な中原の詩の難解さといったものをカバーしていて親しみやすいものにしているのです。」

 また第三連の「今夜此処での一殷盛り」は、北原白秋との類似がしてきされている。《白き道化が人踊り…》。また《色あかきいもりの腹のひとおどり》など北原白秋詩集「思い出」の中の各フレーズに類似していることをあげている詩人もいる。いいかえれば白秋的詩語の転用がなされてるとみてもいいだろう。晩年の作品から初期の詩編をたどるとまた違った詩人の詩法や語彙の変化が見てとれる。



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