#70 亭主関白に甘んじた妻 ~「替り目」~ | 鑑賞歴50年オトコの「落語のすゝめ」

鑑賞歴50年オトコの「落語のすゝめ」

1956年に落語に出逢い、鑑賞歴50余年。聴けばきくほど奥深く、雑学豊かに、ネタ広がる。落語とともに歩んだ人生を振り返ると共に、子や孫達、若い世代、そして落語初心者と仰る方々に是非とも落語の魅力を伝えたいと願っている。

1122日は語呂合わせで「いい夫婦の日」だそうである。これは日本生産性本部によって1988年に提唱されたもので、“ゆとりある生活や生きていくことの意味を、夫婦という単位から見つめよう”という趣旨であった。1998年にこれを推進する会(名誉会長:桂文珍氏)が設立され、理想の夫婦を選んだり、川柳を募集したりなどの支援活動を続けている。いい夫婦関係はいい家族関係に繋がり、ひいては明るい社会を築く礎になるのではないかと関係者は期待しているとのことである。まったく同感である。

 

夫婦を扱った多くの落語の中から「替り目(かわりめ)」を聴いてみよう。

 

しこたま飲んで帰ってきた酔っ払いが車屋に薦められるままに家の前から人力車に乗るという信じられないことをやる。迎えに出た女房が迷惑料を払って車屋を帰し、亭主を家に入れる。

 

 亭主は「寝る前にもう一杯飲みたい」と言う。女房は「もう寝なさい」と言いながらも仕方なく燗を付ける。「食べ残しがあるだろう」と亭主は図に乗ってあれこれつまみを要求するが、「全部私が食べちゃいました」と女房は答え、「自分の鼻でもつまみなさい」と素っ気ない返事をする。が、その内「角のおでん屋がまだやっているだろうから買って来ようか?」と女房が折れる。女房が軽くお化粧をしようとすると、「ぐずぐずするな、顔なんてあればいいんだ。早く行って来い!馬鹿、間抜け!」と亭主は威張り散らす。

 

「でも本当は、いつも無理を言ってすまんと心の中では詫びているし、俺には過ぎた良い女房だと感謝しているんだ」と独り言を言うが女房はまだ出掛けていないことに気付く。「お前、まだそこに居たのか?早く行って来~い」と亭主は照れくさそうに言う。

 

この噺、ここで高座を降りる演者が多く、演目の「替り目」の意味がよく分からず、“威張り散らしていた亭主が、女房が出掛けたと思った途端に感謝の言葉を言う等ころっと態度が変わったので「替り目」というのか”と私は理解していた。が、実はそうではなく、この噺には以下のような続きがあるのである。

 

女房がおでんを買いに行った後、屋台のうどん屋が家の前を流してくる。亭主はこれを呼び止め、うどん屋が持っているお湯で酒の燗を付けさせる。うどん屋がこれに応じた後、「一杯如何ですか?」とうどんを勧めるが亭主は「おれはうどんは嫌いだ」と愛想ない返事をし、おまけにくどくどと同じ話をするのでうどん屋は閉口して立ち去る。

 

おでんを買って帰ってきた女房がこの経緯を聞き、「まあ、可愛そうなことをしたものだね。私が一杯食べるわ。うどん屋さ~ん」とうどん屋を呼び返す。通り掛った男がこの呼び声を聞いて「うどん屋さん、あの家で呼んでいますよ」と教えると、うどん屋は「あそこはいかん。ちょうど燗の“替り目”でしょう」。

 

ここまで聴いてはじめて演目名に納得のいく噺である。

 

昭和時代の日本の一般的な夫婦はこの噺のような関係であった。即ち、“亭主が主人と位置づけられ女房が一歩引く”というスタイルであった。亭主は家庭においては寡黙が許され、言葉や態度での愛情や感謝の表現はしないのが当たり前とされていた。

 

しかし、共働きが増え、定年後夫婦二人だけで過ごす時間が長くなってきているなどの社会変化が起き、どちらか一方の我慢や犠牲で成り立っている関係は現在では“いい夫婦”とは言えないようである。「家事育児 日本男児の 茶飯事に」(拙作)。

 

夫婦お互いが尊重し合い、感謝の気持ちを持って毎日を送ることが“いい夫婦”になる秘訣であろうと私は思う。

 

(善峰寺・京都 2003年)

 

(白鳥ロード・島根 2011年)

 


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