永保三年(1083)清原家の長老、吉彦秀武は専制政治を敷く清原真衡への反発から、挙兵します。後三年合戦の始まりです。清衡軍も加勢し、真衡の館を攻め入りますが、陸奥守源義家の出陣により撤退します。その後清原真衡が急死すると、奥六郡と呼ばれるみちのくの地は、清衡と異父兄弟である、家衡が治めるようになります。
幼き頃から兄清衡を慕って来た清原家衡でしたが、清原武衡の策略にそそのかされ、自らが清原家の主と成るべく、兵を挙げ清衡の妻子を討ってしまいます。父は違えど血の繋がった弟に館を焼かれ、妻子を皆殺しにされた清衡は弟を討つため、清原の姓を捨て再び藤原を名乗ります。応徳三年(1086)藤原清衡は源義家と共に清原家衡討伐に向かうのです。