多くの場合、酒に酔うと、真実は隠されてしまう。
日常生活の困難から一時的に逃避するために、酒の魔力を借りている場合は、特にそうである。
酔いとは、アルコールの薬理作用を利用したトリップである。アルコールは、なじみのドラッグであり、容易に入手可能な合法的な薬物である。
酒を断った当初は、その、酒を飲めないことを不自由と感じていた。アルコールに依存していたから、酒を自由に飲めないことを不自由と感じるのは当たり前だったか。
それが今は、全く逆で、酒を飲まない生活に、限りない自由を感じる。
酒を飲まずにいられなかったことこそ、実は、酒に縛られた不自由な人生だったのだ。酒を断たない限り、このことに気付くことは無かっただろう。
断酒は、自分を自由な世界に解放する。酒に囚われた心を、大空へ解き放つ。
断酒が己を解放し、自由な生き方へと導いてくれるのは真実だが、このことは、断酒直後には分からない。
飲酒のほうが不自由であること。これは自明の理である。
飲むと酔う。酔うと、本来出来て当たり前のことが出来なくなる。これは、不自由以外の何物でもない。
タバコもそうだが、酒も、そもそも、常に手元に無いと困るとか、無いとそわそわして落ち着かないとか、その時点で、アウトである。依存しているのである。タバコや酒に束縛されているのである。
酒を飲まない生活では、24時間365日、素面である。タバコも酒も、全く不要であることに自由を感じる。自分できちんと判断して、どうにでも動ける。これこそ自由ではないか!
飲んだくれていた頃の考え方が誤っており、酒を飲めることが自由だと勘違いしていたのだ。
実は、酒を飲めることは不自由であって、酒を飲まないことこそが自由なのである。
さて、ここで、話が変わって、曇天&たまに小雨ぱらつく中、メトロ主催のウォーキングに、かみさんと参加して来たので、何枚か写真を。
今日は、銀座から、白金まで約10kmを歩いた。
街は、更にクリスマス色に染められて、あっちでもこっちでも、飾りが綺麗だった。
もう、今年も、残りあと1か月半を切った。
酒のない生活は、飲んだくれていた頃に比べると、より季節を色濃く感じる。
もうひとつ、最近このようなウォーキングに参加して思うのは、加齢による肉体の衰えである。帰宅してから、どっと疲れるのだ。
酒なんぞ飲むより、ふかふかの布団に横になることのほうが、極楽である(笑)
いつもより足がガクガクして、筋肉痛だったのは、途中の愛宕神社で、「出世の石段」を昇り降りしたからだ・・・
かみさんは、「出世したくないから、昇らないよ」と、下で待っていた。
帰宅後調べたら、この石段は、斜度40度、段数86段だそうだ。 キツカッタ。
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