*問題は「東大教室(04東大日本史本試Ⅱ 問題)」をご覧ください。
第2問 中世・近世(社会経済)
中世~近世の貨幣流通
解説①
12世紀以降の貨幣流通のあり方をテーマにした問題である。
三種類の銭貨の写真①~③を示したうえで、設問A(宋銭が流通した背景)、設問B(永楽通宝が鋳造・埋蔵された経過)、設問C(幕藩体制の確立と貨幣のあり方)に答えることが求められている。
基本事項の整理
最初に、中世から近世前期にかけての時期の貨幣流通にかかわる基本事項を整理しておこう。
整理 中世から近世前期にかけての貨幣流通
中世前半(鎌倉時代後期)日宋貿易でもたらされた宋銭がおもに使用され、貨幣経済の浸透を背景に商業活動も活発化した。
中世前半(室町時代)貨幣として、永楽通宝などの中国銭(宋銭・明銭)が使用された。
ただし、粗悪な私鋳銭も流通したため、撰銭(えりぜに)(悪銭を嫌って良銭を選ぶ行為)が一般化し、しばしば経済活動の障害になった。
戦国大名などは、悪銭と良銭の使用割合などを規定した撰銭令をしばしば発して、領国内などでの円滑な貨幣流通を図る措置をとった。
近世前半(幕藩体制下)江戸幕府は、江戸・京都・大坂(三都)、さらに長崎・堺などの重要都市を直轄にして商工業や貿易を統制し、貨幣鋳造権も掌握した(金銀銭=三貨)。
貨幣流通の状況をみると、1両小判・1分(ぶ)金・2朱金(1両=4分=16朱)などが鋳造された金貨は、価格が表示された計数貨幣として使用され、おもに東日本で流通した(江戸の金遣い)。
これに対して、丁銀(重量40匁前後=約150g)・豆板銀(重量5匁前後)が鋳造された銀貨は、重さが不定であるため重量を量って使用する秤量(しょうりょう)貨幣であり、おもに西日本で流通していった(上方の銀遣い)。
このように使用法・流通地域の点で性格の異なる貨幣を円滑に流通させるため、江戸幕府は、金銀銭(三貨)の交換比率を公定したが、実際の三貨の交換比率は、その時々の相場によって変動していくことになった。
設問Aの考え方 宋銭が流通した背景
それでは、設問別に論述のポイントを確認することにしたい。
写真①の皇宋通宝(宝の旧字体→寶、俗字→寳)が「造られた」のは、名前のとおり宋代(北宋、960~1127)で、この銭貨はもっとも大量に日本にもたらされた渡来銭の一つだと考えられている。
設問Aでは、このような宋銭が流通した背景を、「国内経済」の変化という側面からまとめることが求められている。
したがって素直に、鎌倉時代に経済・社会が発達した諸側面を整理すればよい。
最大のポイントは、商業・流通面だけに目を奪われずに、その前提となる農業生産力の問題にも触れることになるだろう。
以下に教科書の記述を整理しておくが、必要なのは簡潔にまとめる力である。
整理 鎌倉時代の農業と商業
農業生産肥料の使用、牛馬耕・二毛作の普及など農業技術の発展に支えられて農業生産力が増大した。
商業・流通(a) 荘園の年貢を貨幣にかえて領主に送る銭納、
(b) 遠隔地への金銭の輸送を手形でおこなう為替、
(c) 商品の中継ぎ・運送などを担当する問丸、
(d) 高利貸業に従事する借上、
などが増加した。
さらに、
(e) 交通の要地などで定期市(毎月3回の場合→三斎市)が開かれるようになり、
(f) 京都などでは見世棚(常設の小売店)もみられるようになった。
解 答
A宋。二毛作などによる農業生産力の上昇、三斎市・見世棚の成立や遠隔地取引の発展などが日宋貿易で流入した銭の流通を促した。
(60字)
*「04東大日本史本試Ⅱを考える②」に続く。