*【東大教室】ブログ上公開演習⓮-2(解説)の続きです。
*問題は、【東大教室】ブログ上公開演習⓮-1(問題)で確認してください。
演習⓮ 近現代(政治・外交)
浜口内閣期の内政と外交
解説②
金解禁の実施と昭和恐慌(A)
1930年1月、ついに金(輸出)解禁が断行された。
ごく一部で新平価解禁論も唱えられたが、実際の金解禁は、円の国際的な信用の確保を重視して、実質的な円切上げを意味する旧平価でおこなわれた。
この政策は、1930年から31年にかけて、予想をはるかに超える未曾有の大恐慌を日本にもたらすことになる(昭和恐慌)。
緊縮財政など井上財政にともなうデフレ効果に、1929年10月からアメリカで始まった恐慌(世界恐慌)の影響が重なったからだった。
具体的には、輸出の急激な低下、企業の操業短縮や倒産、失業者の増大などに加えて、生糸の対米輸出が激減して繭価が暴落し、農村も深刻な恐慌状態を経験した(農業恐慌)。
このため東北地方などでは、欠食児童や女子の身売りが相次ぎ、社会不安が増大していった。
【新平価解禁論】
新平価解禁論とは、当時の円為替相場が100円=44~46ドル前後だったため、1897年の金本位制採用時の基準(旧平価、100円=金75g≒49.85ドル)ではなく、為替相場の実態にあわせた基準で解禁(円切下げによる解禁=新平価解禁)を実行し、解禁にともなう衝撃を緩和すべきだという主張をいう。
この議論は、石橋湛山など少数のジャーナリストによって唱えられた。
【対米為替相場の変遷】
*参考 金解禁政策の総整理【完】(テーマ参照)
ワシントン会議の開催(A)
一方、第一次世界大戦後の1920年代は、ヴェルサイユ・ワシントン体制と総称される世界的規模の国際秩序が機能した一時期でもあった。
アメリカ・イギリス・フランス・イタリアとともに五大国(Big Five)とみなされるようになった日本も、その重要な担い手でなければならなかった。
世界でもっとも大きな存在感をもつ国家へと成長したアメリカの呼びかけでワシントン会議が開催されたのは、1921年11月のことである(~1922年2月)。
日本は、加藤友三郎(海相)・徳川家達(いえさと)(貴族院議長)・幣原喜重郎(駐米大使)を全権とする代表団を派遣し、この会議に積極的に参加した。
会議では、東アジア・太平洋地域の諸問題が討議され、主力艦の10年間建造禁止などを盛りこんだワシントン海軍軍縮条約、太平洋地域を対象とした四カ国条約、中国問題をあつかった九カ国条約などが成立した。
【ワシントン会議における諸条約】
四カ国条約(1921)
米・英・日・仏4カ国で太平洋地域の現状維持に合意。
日英同盟協約の廃棄が明記された。
九カ国条約(1922)
米・英・日・仏・伊・ベルギー・ポルトガル・オランダ・中国9カ国が中国問題について合意。
中国での新しい権益の獲得などを禁止した。
また、これにより石井・ランシング協定が廃棄された。
ワシントン海軍軍縮条約(1922)
米・英・日・仏・伊5カ国で、主力艦の保有量比率と今後10年間の主力艦建造禁止に合意。
主力艦の保有量比率は、米・英・日・仏・伊の順に5:5:3:1.67:1.67になった。
山東懸案解決条約(1922)
日中間の直接交渉で、山東省の旧ドイツ権益を中国に返還する条約が成立した。
紹介(参考書・再録)
詳説日本史ガイドブック(上)
https://www.yamakawa.co.jp/product/02017
東大教室指定教材
「中学から使える」とあるのは、
中学段階で
山川出版社などの高校用教科書を
使用しているところがあるからです。
なお、来年度・東大教室の予定は、
まもなく発表できるはずです。
もうしばらくお待ちください。
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