御神体にお参りした後、帰りは脇道を通った。
脇道は、もちろんここも霊場であるのだが、静かではなかった。
参道に向かう道によくある両側にお土産屋が連なっている様…、もちろんこの場は霊場であるからそんなものはないのだが、脇道を通りながら賑わいを感じた。
ど真ん中の道は冷気を感じたが、脇道は明るく陽の当たる場所で温く緩く集中できないざわざわした気が充満していた。
身が引き締まるような気こそ高い波動と言えるが、世の中はこの緩く温くあらゆるものに興味を持たせるような散漫さに愛を感じるのだろう。それが神だとか、愛だとか表現されていることにもどかしさを感じる。
脇道は、何でもあり、どんなものも入り込める、この賑わいを散漫さと言ってしまわなければわたしの内が納得しない。
ど真ん中を目指すもの達に商売をする…この霊場のど真ん中はそんなことも気にも留めず集中しているのだ。
脇道に、笑って太って寝そべった像があった。
その前に立ったとき
「名を名乗れ、何でも願いを叶えてやる」像と重なるように何かが話しかけてきた。
勝手に話しかけられることなど、今まで一度もなかった。
声はいつでもわたしの問いに対して応えてくれるだけだった。
何という無礼で礼儀作法も知らぬ鈍い豚野郎だと、挑発的に言葉をかえした。
「願いなどない。あなたのような者に叶えられるような願いなどいらぬ」わたし。
「おもしろいことを言うな」像。
すぐに他の観光客がやって来た。すると、その人に向けて
「名を名乗れ」と声をかけて、わたしに関わらなくなった。
ここは近づかない方がいいなと思って立ち去るとき、小さな子供が大泣きしていた。
その子供は、ここに近づきたくないと階段にへばりついて泣いていた。
その心情が母親には分からないのだろう、無理やりお参りしようと子供を持ち上げようと必死だった。
3歳くらいの子だろう、容易に持ち上がられるくらいの体重だろうが、身体は石のように重くなり母親は四苦八苦していた。
絶対の信念はどんな力をもっても変えられない。手に負えないほどの癇癪にも意味がある。
脇に置いた荷物からお供え物を出している男性がいた。
片足を引きずりながら、その男性は像に供え物を捧げ、その前に跪いていた。
声はその男性に向けられた。柔らかく包み込むように言葉をかけていた。
たぶん常連なのだろう。
なぜ脇道を行くのだろうか。
優しく温かく包み込んでくれるからなのだろうか。
願いを叶えてくれたと錯覚させてくれるからなのだろうか。
更なる望み願い、そして不安と焦りが増して、跪きひれ伏すことになるのではないのか。
それを愛だと、神だと、真実だと、誰がそう言ったのだろう。
立ち上がり、前を向いて、自由に向けて歩み始める…
先の見えない不安があるのか?それを不安というのか?
自由を知る者に不安などない。
自分自身の内に信じるものがあるのだ。カタチのないものが。