第14章 内観療法と大学卒業

卒論の題目の正式な届け出は、秋に行われる。

それまでに、テーマや題目を変更することは可能だった。

越川先生は、内観療法のほうが自分の専門に近いテーマだということで、変更を許可してくださった。

私は、ミルトン・エリクソンよりも遥かに取り組みやすいテーマになったので、少し安堵した。

しかし、私にとって大きな問題が残されていた。

それは、私自身が内観療法を受けたことがないということだった。

内観療法のように極めて構造化された心理療法の場合、いくら学術的に研究しようとしても、実際に自分自身で体験してみなければわからないことが沢山ある。

内観療法は、精神疾患に悩まされる人だけが対象ではなく、健康な人が精神修養のために受けることも多い心理療法だ。

内観療法を体験したことのない者が、内観療法の論文を書いたところで説得力はないように思えた。

しかし、内観療法ほど、受けるための心理的なハードルが高い心理療法も、他にはないのだった。

内観療法は、内観研修所という専門の施設で行われる。

約一週間、その施設に泊まり込みで心理療法をする。

通常は、月曜日から始まり、その週の土曜日か日曜日に終わる。

内観療法で一定の成果を得るためには、最低でも一週間という期間が必要だという。

なぜ、それほどまでの時間が必要なのか。

数日間の内観療法では、根強い心理的な抵抗を乗り越えて治癒までに至ることが、ほぼ不可能だからだ。

それは逆に言えば、たった一週間の内観療法によって、数年間の心理療法に匹敵するほどの効果をもたらすとも言える。

それゆえ、内観療法を受けることと、受けてから数日間の心理的な抵抗は凄まじいそうだ。

数日間で挫折して、施設を去る人も多い。

越川先生によれば、内観療法に興味を抱く学生はいても、実際に内観療法を受けに行く生徒は、ほとんどいなかったという。

余程のことがなければ、それだけの心理的な抵抗を乗り越えて、内観療法を受けに行こうと思う生徒はいないのだろう。

私はこの時、内観療法を知って10年以上が経っていた。

しかし、これまで実際に施設に行って内観療法を受けようとは思わなかった。

自分一人でできるのではないかと思って何度もチャレンジしてみたが、数十分で挫折してしまう。

これを朝から晩まで一週間やり続けるというのは、到底一人では不可能なことだ。

だからこそ、内観療法は、構造化された手順によって心理療法を行なっている。

そういう意味でも、内観療法の論文を書くには、実際に内観療法をこの身で体験しなければ、説得力は生まれ得ない。

私は、内観療法が強力な効果をもたらす心理療法であることを、様々な文献を通して知っていた。

それは私自身に、内観療法を受けることへの強烈な抵抗が生じるということを意味していた。

実際、内観療法を卒論のテーマにしようと思わなければ、私は、内観療法を受けに行くことはなかっただろう。


内観療法は、シンプルな心理療法だ。

誰でも、今すぐに行なうことができる。

以下の三つのテーマにそって、過去を思い出せばいい。

・お母さん(親や兄弟や親戚や友人など)に、お世話になったこと(してもらったこと)

・お母さん(親や兄弟や親戚や友人など)に、して返したこと

・お母さん(親や兄弟や親戚や友人など)に、迷惑をかけたこと

この三つのテーマにそって、小学校一年生から、約三年間くらいの期間を区切って、様々な出来事を思い出していく。

最初は、小学校一年生の時にお母さんにお世話になったことを、できるだけ思い出す。

親に対して感謝しろとか、恩を感じろとか、そのようなことは何も言われないし、意識する必要もない。

すべきことは、ただひたすら過去を思い出していくことだけだ。

施設では、朝7時から夜9時まで、食事や入浴の時間以外は、ひたすらこの作業を続けていく。

その際に、屏風で仕切られた半畳ほどの空間の中に座って、記憶を想起して行く。

約一時間毎に面接者と呼ばれる人が来て、その時間に思い出したことを尋ねる。

「小学校一年の時に、お母さんにお世話になったことは、入学式の日に美味しい食事を作って、お祝いをしてくれました」といったエピソードを面接者に話す。

面接者は、基本的に、内観をする人の話を静かに聴くだけだ。

指示的なアドバイスは、通常は行わない。

母親に関して、小学校一年から現在に至るまでを思い出したら、次は、父親に対して同じ作業をする。

その後は、兄弟、祖父母、上司、友人など、特定の人物に対して記憶を想起する。

母親に対する内観は、繰り返すことも多い。

この記憶の想起を、ひたすら一週間続けるのだ。

私は、卒論のテーマを内観療法に変えたことで、内観療法を受ける覚悟を決めざるを得なかった。

そして、なぜか同時期に、私は苫米地ワークスクラスの師範代を辞めることになった。

精神的にも不安定になり、追い詰められてた。

この時こそ、内観療法を受ける絶好のチャンスはないように思われた。

2006年の秋、私は、東京の白金台内観研修所の門を叩いた。

内観療法を一週間、受けることにしたのだ。


朝6時、薄暗い部屋の天井のスピーカーから、うら悲しい音楽が流れる。

喜多郎の音楽が、起床の目覚まし代わりだ。

私は布団をたたみ、顔を洗う。

ほうきを手にとり、畳の部屋を掃く。

雑巾を絞り、拭き掃除をする。

室外の共用部分の掃除は、各自に割り当てられている。

私の担当は、浴室だ。

年末の大掃除のように、浴槽の細かい部分まで磨く。

完全なる静寂の中で、ただ掃除だけをする。

掃除の時間が終わると、部屋に戻る。

屏風に囲まれた半畳のスペースに入る。

そこから夜の9時まで、その中で、ずっと内観をし続ける。

食事も、屏風の中で食べる。

朝食は、伝統的な和食。

昼食は麺類が多く、夕食はバランスのとれた美味しい食事だった。

トイレは、共用のトイレを使う。

他の内観者とは一切、口をきいてはいけない。

私が内観療法を受けた時期は、内観者が少なかった。

その一週間、他の内観者には、ほとんど会わなかった。

屏風の中に座り、過去を思い出そうとする。

しかし、ほとんど思い出せない。

いくつかのエピソードが、漠然と浮かんでくるだけだ。

約一時間ごとに、面接者が来る。

「この時間、誰に対して、いつごろの自分を調べてくださいましたか?」

私は、その時間に思い出したわずかなエピソードを話す。

一日中、この作業をし続ける。

食事中も、入浴中も、内観療法を続けなければならない。


最初の三日間は、ほとんど何も思い出せなかった。

思い出せないのに、ひたすら思い出そうとしなければならない。

屏風に囲まれた半畳のスペース。

朝から夜まで、15時間、ただ座り続ける。

何度も、やめようかと思った。

逃げたくなった。

三日目の夜は、本当にやめて、帰ろうと思った。

内観療法というのは、これほどまでに苦しいのか。

なぜ朝から晩まで、ひたすら座り続けて、子供の頃を思い出さなければならないのか。

一体何のために、こんなことをしているのか。

なぜ、こんなことをしなければならないのか。

私は、多くの内観者が、最初の数日間、何も思い出すことができずに苦悶することを知っていた。

様々な内観療法の文献に、その苦しみが書かれていたからだ。

しかし、いざ自分が経験してみると、それが予想以上に苦しいことがわかった。

これは単に、一日15時間座り続け、思い出し続けようとしていることへの苦しみではない。

何か別の苦痛が、そこに含まれているように思える。

思い出せないというのは、本当は、思い出したくないのだ。

母親が自分にしてくれたこと。

そして、それにもかかわらず、自分が母親に迷惑をかけたこと。

それを思い出すこと自体が、私の自我にとって、極めて悲痛な作業なのだ。


自分が愛されている。

私たちは、それを受け入れたくない。

なぜなら、それを受け入れてしまうと、自分の愚かさに直面してしまうからだ。

まるで、自分の基盤が崩れてしまうような不安を感じるのだ。

私たちは、人を責めることによって、自分というものの枠組みを維持してきた。

それが、我執という意味における自我だ。

相手は自分を愛してくれない。

相手が間違っている。

相手がおかしい。

そのように思うことによって、自分が正しいということを確認し続ける。

自分という存在の枠組みを守るために、他者を責め、見下す。

内観療法では、自分が母親にしてもらったことを思い出す。

それは、母親に愛された体験だ。

同時に、自分が母親に迷惑をかけたことを思い出す。

それは、自分の愚かさや未熟さを直視することだ。

他者に愛されたことと自分が未熟であることを認めることは、自我にとって、その枠組みそのものを否定されるに等しい。

自分が正しく、他者が間違っているということを拠り所にしてきた自我は、その拠り所を失うことに強い恐怖を感じるのだ。

それはまるで、死の恐怖と同じだ。

どうしても思い出せない。

自分の愚かさを認めたくない。

自分が愛されてきたことを受け入れたくない。

それを認めるくらいなら、死んだ方がましだ。
 
私は激しい苦悶の中で、この期間を過ごした。

しかし、逃げることはできなかった。

一週間、内観療法をし続けなければならない。

自分が一番見たくないこと、一番認めたくないことを受け入れるのが、内観療法の大切なプロセスなのだ。


苦悶の三日間が過ぎた。

四日目から、信じられないような現象が起こった。

なぜか、忘れていた記憶が泉のごとく溢れてくる。

私の自我が、抵抗を諦めて、とりあえずは降伏した証だった。

私の中に、今の母親に対して、何からの心理的な葛藤があったとしても、しかたのないことだった。

五歳の時に、生みの母親が亡くなった。

その後、今の母親は、まるで自分の子供のように私を育ててくれた。

しかし私は、思春期の頃、母親にものすごく反発した。

反抗期だったのかもしれないが、自分でも、なぜそれほど反発したくなるのかわからなかった。

しかし内観を続けていると、今の母親が、私の本当の母親になろうとして、どれほどの努力を続けてきたのかが、わかった。

それは、観念ではなく、明確な事実としてわかったのだ。

他人の子供の母親になること。

本当の母親になろうと努力し続けること。

実の母親ではないがゆえに、それは並大抵の努力ではなかっただろう。

そして、だからこそ、そこに注ぎ込まれた愛情は、どれほど深いものだったか。

面接者は私に言った。

「これほどまでに人の子を愛してくれるお母さんは、世界にも稀に見るお母さんですね」

内観療法の終盤には、涙がとめどなく溢れてくる体験もした。

私がどれほど愛されていたのか。

そして、私がどれほど、それを素直に受け入れることができなかったのか。

そのことを深く実感することができた。


内観療法を終えた私は、これらの体験を学士論文に詳細に書いた。

そして、内観療法によって我執を超克するメカニズムについて論じた。

2007年の春、私の学士論文『内観療法における我執の超克』は、A+という最高評価を得た。

独自の内観体験をベースに、私にしか書けないことが論じられている。

それが、評価の理由だった。

越川先生と雑談をしながら、文学部の廊下で別れる時に、越川先生は「(論文が)面白かった」と言ってくださった。

1994年に入学し、担任の先生だった越川先生が、2007年の春、私を卒業に導いてくださった。

13年間の想いを噛み締めて、私は早稲田大学を卒業した。