善悪の概念の否定を説いた一九世紀の哲学者ニーチェ(1844~1900)の思想について、詳しく、広範に現代の社会問題と絡めて論じている文章が見つかったので転載する。

 

ニーチェの思想は現代においても多大な影響を社会に与え続けている。

 

紹介する文章で述べられているニーチェ思想に対する分析とその危険性に対する警告は、現代の格差社会が拡大し続ける事を肯定する思想的背景を浮き彫りにするだろう。

 

そこから格差社会を肯定する拝金主義、立場の強い者を盲信する権威主義(学歴、能力、家柄など)、カルト宗教、エゴイズム、排他的な国家主義、民族主義が跳躍跋扈する現代において、それらの悪徳を克服するための正義、愛、善悪、真理、とは何かを考察する。

 

その答えの全てを包括するのが、「人格と民主主義の原理」であることをお伝えしたい。

 

これはフリーメーソン・ユダヤ国際銀行権力が中心になって作りだしてきた自由民主制の矛盾を批判するあまり、ナチスのように民主主義を否定し、非民主的な価値観に誘導されないようにするためにも必要な検証である。

 

 

 

(転載開始)

 

作品研究1『70年代カルチャー第二期ウルトラを総括せよ!』補足
ニーチェと少年犯罪についての一考察

http://www.geocities.co.jp/Hollywood-Studio/8352/niitye.html

 

 

「『真理といえるものはない、何をしても許される』こう私は自分に言いきかせた。」
(『ツァラトゥストラはかく語りき』第四部「影」より)。

 

 オウム真理教の地下鉄サリン事件以降、雑誌のコラムやエッセイなどで、「善悪の概念の否定」や「悪の肯定」が盛んに言われるようになった。『終わりなき日常を生きろ』(筑摩書房)あたりが、そういうオピニオンの代表的なもだろうか。

 

<中略>

 

「正義の否定」「善悪の概念の否定」「悪の肯定」といった思想は、もとを辿れば哲学者ニーチェの思想に通じるものだ(『ツァラトゥストラはかく語りき(こう言った)』『善悪の彼岸』『道徳の系譜』など)。ニーチェの哲学は道徳的な価値観を罵倒、冷笑するニヒリズムやシニシズムの思想として代表的なものである。こういうニーチェ的な思想を、流行としてマスコミなどで社会に蔓延させることは直接犯罪の誘発に結びつくのではないだろうか。

『善悪の彼岸へ』(宮内勝典/著、講談社)という本によると、酒鬼薔薇が逮捕後の精神鑑定で「全ての ものに優劣はない。善悪もない」という言葉を語ったという(256ページ)。有名な酒鬼薔薇の手記には、「神は死んだ」というニーチェの引用もあったそう である(このフレーズは『ツァラトゥストラはかく語りき』でくり返されるもの)。「全てのものに優劣はない。善悪もない」という彼の発言はニーチェの本の 影響にまちがいないだろう。「善悪もない」といっている以上、彼の犯罪はニーチェの思想、つまり背徳主義による犯罪だったといえるのである。

 

 スタンリー・キューブリック監督の『時計じかけのオレンジ』という映画は、キューブリック監督が ニーチェに傾倒していたことから「善悪の概念の否定」ないし「悪の肯定」をテーマにした作品だ。『映画秘宝』vol.24(洋泉社)の『時計じかけのオレ ンジ』のレビュー(町山智浩)によると、この作品の影響によって、アメリカで72年にアーサー・ブレマーという22才の青年が、大統領候補をねらった銃撃 事件をおこしている。この青年の日記には「『時計じかけのオレンジ』をみて人が殺したくなった」とかかれていたそうだ。この事件も酒鬼薔薇の事件同様、 ニーチェの影響による事件だったと言えるだろう。

 実はニーチェの思想が犯罪の動機になるということは、犯罪心理学の分野で以前からいわれていたことであったのだ。犯罪心理学者がさまざまな犯罪をわかりやすく解説した本『犯罪ハンドブック』(新書館)には、ずばり『ニーチェ』という項目がある(151ページ)。
 これはたった1ページという、じつに短い項目だが、ニーチェの思想がいままでいくつかの犯罪を誘発した、ということがかかれてある。
この項では、ニーチェの哲学は青年を心酔させ、熱狂させる危険かつ魅力的な、麻薬的な作用がある、と言及しています。そのうえで、

「彼(ニーチェ)の影響は大はナチズム(特に遺稿『権力への意志』)から、小は確信犯罪、生の無意味さの極限、ニヒリズムによる実存的殺人にまでおよんでいる。」(151ページ下段)

 とある。そしてこの本では、1924年にシカゴでおこった殺人事件をその一例にあげている(ニーチェのいう「超人」にあこがれた青年が起こした)この本ではこの一例しか紹介していないのが大変残念。筆者としては、もっと多くの例を紹介してほしかったが…。

 また、この項では「法に縛られるのは奴隷に過ぎない。エリートは『善悪の彼岸』、超法規的存在である。」という一節もある。これはニーチェの「善悪の概念の否定」という思想が犯罪者に「超法規的な特権(つまり犯罪の肯定化)」をあたえてしまうことを意味している。

 ニーチェの思想が犯罪の動機になる、というのは、ある程度、犯罪心理学の世界でも言われていることである、ということを、このことで分かっていただきたいとおもう。

 

(転載終了)

 

 

 

ここまで読むと、善悪を奴隷道徳として否定して、力への意志を称賛し「何をしても許される」、というニーチェの思想は、同時代に活躍した一九世紀のロシアの文学者ドストエフスキーが「罪と罰」、「悪霊」、「カラマーゾフの兄弟」などで取り上げてきたテーマそのもである。

どれも犯罪をテーマにした小説であり、ニーチェ思想とほぼ類似した思想に基づいて登場人物は犯罪を犯している。

 

善悪の否定は当然ながら犯罪を誘発する。ドストエフスキーの作品の中での警告は、ニーチェ主義に影響された犯罪者たちによって現実のものとなった。

 

さらに社会から善悪の概念を取り外すと、残るのは弱肉強食の世界となる。

 

それを実践したのがナチスドイツであった。

 

 

(転載開始)

 

ニーチェ主義とナチズム

 また、先に挙げた『犯罪ハンドブック』の引用箇所にもあるように、ニーチェの思想はナチスに影響を与えた。
このことは、実は学者たちの間でも意見の相違があるようだ。しかしヒトラーはムッソリーニに『ニーチェ全集』をプレゼントしたことや、ニーチェの妹がナチ スに加担したこと、またニーチェの思想も反ユダヤ的で反民主主義であることなどから、一般的には、ニーチェの思想はナチスに影響を与えたとする説が有力の ようだ。

 

 

<中略>

 

 人間が本来持っている欲望のことをニーチェは「生」といい、これをニーチェは「貴族的評価価値」として理想としていた。ニーチェは既成の「善悪」 というものを否定したうえで、「肉体や意志の強さ(能力の優秀さもふくむ)」を理想とする「貴族的評価価値(貴族道徳)」というものが本来的な価値の評価 の基準である、という。この「貴族的評価価値」とは、つきつめると「力への意志」になるという。この「力」とは絶対的な権力、あるいは粗野な暴力と似たよ うなもので、現在の社会では「悪」とされているような野蛮なものである。
 そして、現在の社会で善とされている「弱者への同情や救済」や「人間は平等」とする価値観を否定する。

「神の同情にせよ、人間の同情にせよ、同情は恥しらずだ。」
(『ツァラトゥストラ~』第四部『最も醜い人間』)

「…不当なのは、そもそも不平等な権利にあるのではない。「平等」な権利を要求することそのことのうちにあるのだ。」
(『アンチクリスト(反キリスト)』『五七』より)

これらの価値観を「弱者の怨み(ルサンチマン)から生じたもの」として批判し、「僧職的評価価値(奴隷道徳)」といい否定するのだ。これらの思想はエリート主義に通じるものであり、ナチスがエリート主義の社会だったのはニーチェの思想の影響とされている。

「善悪」を否定すると、世の中には「強弱」しかのこらないことになる。有名な某大学助教授はニーチェの影響をうけていて講議で「生は全く無意味だ。 世の中に善悪はない、強弱だけである。意味に生きるな、強度に生きろ。」と教えていたそうだ。つまり善悪という価値観がなくなったら世の中には個人の能力 差による強弱だけになってしまうのだ。

 善悪を否定すれば人間は自由になる、とおもうかも知れない。だが、善悪を否定しても個人の能力差は存在してしまう以上、実際は、強いものにとって のみ自由な世界ができあがるだけで、強いものが弱いものを支配するという事実上のファシズムになってしまうのだ。強弱と善悪との間に生じるジレンマが、社 会を複雑にしているとおもうのだが、善悪を社会からとりさったら「強いものが勝つだけ」という恐ろしく単純な社会ができあがる。ナチスはそれを証明したと いえないだろうか。

 また『ツァラトゥストラはこう言った』を読むと、ニーチェはさんざん「善悪」「正義」という概念を否定しているにもかかわらず、自身の理想とする「貴族的評価価値」のことを「正義」と呼んでいる部分がわずかにある。
(ニーチェの著書は、こういう矛盾しているような部分がたくさんあるのも有名。なにせ脳梅毒だったという噂ですからね…)

 

<中略>

 

 またニーチェは善悪を否定しておきながら「強いものが善、弱いものが悪」というようなこともいっている。
例)「善とは何か――人間において権力の感情と権力を欲する意志を高揚するすべてのもの。悪とは何か――弱さから生ずるすべてのもの。(『偶像の黄昏 アンチクリスト(反キリスト)』(白水社)162ページ)」
 一般的には、善とは弱者を救うものであり、悪とは権力をふるい弱者を痛めつける強いものとされる。だが、これを逆転させて「弱者救済が悪」「権力が善」とするのがニーチェの思想なのである。

 この、弱者救済をを否定し権力を肯定する考え方は、前述の貴族的評価価値と同じものである。善悪と強弱を同一のものとしてしまうこの考え方は、「善とは、その時代に権力をもったものの言い分にすぎない」というニュアンスもふくんでおり、事実上の善悪の否定でもある。

 ニーチェは「善」「悪」という価値観は相対的なものだと述べている。
「つぎのように言う者は、自分自身を発見したものといえる。--『これはわたしの善だ。これはわたしの悪だ』と。(『ツァラトゥストラはこういった』の第三部『重力の間』より)」

 こういった考え方は価値相対主義といわれる。たしかに、善悪という概念は個人によってことなる場合 があり、これを認識することは大事であろう。しかし、価値相対主義は、犯罪の正当化の口実に利用されてしまう危険もある。つまり犯罪をおこなった人間が 「これは私にとっては善なのです」と言い張って自身の罪を認めないということも起こりうるのである。なので、価値相対主義は主張するにも慎重さが必要だろ う。

 ヒトラーはニーチェ主義者であった以上、ヒトラーが語った「正義」というのは、こういった価値相対主義の乱用による自己正当化の一種だったともいえる。

 

(転載終了)

 

全ての価値に優劣は無い、というのが価値相対主義だ。価値相対主義を権利ではなく、概念としても突き詰めてしまうと、全ての善悪は存在しない、という善悪否定論に陥る。ニーチェ思想はまさにその立場から発しているということだ。

そして善悪を無くせば、能力差と運による弱肉強食のみとなる。

このような状況とはどのようなものなのか、私は考えてみた。

 

百獣の王ライオンの生態がニーチェの理想としていた社会だったのではないか?

 

ライオンは純粋な力の社会である。

力の強いオスが他のオスを排除しハーレムを作る。そして、新たにより力の強いオスが現れれば、ボスであったオスは排除される。

そして元ボスの子供は新たなボスによって皆殺しにされる。

子供を皆殺しにされたメス達は、直ぐに発情をはじめ、新たなボスと交尾を行うようになる。

これはより強い遺伝子を残すためにライオンが種族として培った本能である。

 

群れを追い出されたオスライオンは、新たな群れを乗っ取ることに成功しない限り、のたれ死ぬことになる。

 

そこには人間が想定する善悪の概念はほぼ無く、強弱を尊ぶ精神のみが純粋な形で表れている。

 

当然ながら社会保障も、健康保険も、年金も、障害者手当も何もない。(人間社会以外には存在しない)

 

相互扶助の精神の否定は文明の否定である。

 

そして文明の否定とライオンの社会の融合に、ニーチェの理想社会があったのだろう。

(たとえ文明が否定されても、ルソーが想定したような各人がお互いに助け合う自由で平等な原始共産制のような社会はニーチェの理想ではない)

 

 

ナチスの場合は、文明社会を維持しながらニーチェ主義を実践しようとしたところに恐ろしさがあった。

そしてナチスの問題は一般に語られているような「正義」の問題ではなく、弱肉強食を肯定する「良心の否定」にあったのである。

 

(転載開始)

 

ナチズムと正義

 日本では、ある著名な言論人(脚本家の市川森一氏)が「正義という言葉はヒトラーがつかった言葉だ。自由という言葉がいい」という発言をして以来「正義=ヒトラー」というイメージが定着している。しかし、ヒトラーが書いた『わが闘争』を読むと、実は 自身の闘争の目的を「自由のため」とよんでいる箇所がおおい。私見では「正義」よりもむしろ多用している感さえある。

『わが闘争(角川文庫版)』上巻(『1 民族主義的世界観』)の『第八章 わが政治活動のはじめ』の『唯一の信条、すなわち民族と祖国』という項では、以下のような記述がある。

「われわれが闘争すべき目的は、わが人種、わが民族の存立と増殖の確保、民族の子らの扶養、血の純潔の維持、祖国の自由と独立であり、またわが民族が万物の創造主から依託された使命を達成するまえ、生育することができることを目的としている。(278ページ)」

さらに下巻(『2 国家社会主義運動』)の『第一章 世界観と党』の『世界観対世界観』には、

「(前略)われわれは攻撃の形をとって新しい世界観をうちたて、(中略)いつかわが民族が自由の殿堂にふたたびのぼりうるための階段をきずくのだ(16ページ)」

また、下巻の『第十三章 戦後のドイツ同盟政策』の『無能な原因』では、

「ただわが国の崩壊の原因を除去し、同時にその崩壊から不当に利益をえたものを絶滅することだけが、国外に対する自由のための闘争の前提を作り出すことができるのだ。(298ページ)」

 このように、自由ということばはヒトラーも使っていたのだ。この『わが闘争』という本はナチズム運動のバイブルとして、あとのナチスドイツに多大な影響を与えたものである。私見だが『わが闘争』において「自由」は「正義」という言葉より頻出しているようである。

 筆者は念のため、昭和36年に黎明書房からでた『完訳わが闘争』を図書館で読んでみたが、筆者がこのサイトの日記等で引用した「自由」という言葉をつかっている箇所の訳は変わらなかった。現在出ている角川書店版は、この黎明書房版の採録である。

「ハロー効果」という心理学用語がある。これは、権威のある人間が何か語ると、それが例え「間違っていること」だったとしても一般の人は「その発言が正しい」と思いこんでしまう効果の事である。「ハロー効果」は『大辞林 第二版』(三省堂)によると「人や事物のある一つの特徴について良い(ないしは悪い)印象を受けると、その人・事物の他のすべての特徴も実際以上に高く(ないしは低く)評価する現象。後光効果。光背効果。」とある。

著名な言論人が「ヒトラーは正義という言葉をかたったから自由という言葉を使おう」と言ったおかげで多くの日本人は「ヒトラーは自由という言葉を使わなかった」と信じ込んでしまった感がある。これはあきらかにハロー効果によるものだろう。

そうなると、知識人、言論人のいうことを一般人が信じやすいというのは心理学的に証明されていることになる。

 

<中略>

 

つまり「『正義』という言葉は危険、『自由』という言葉は安全」というような図式的な判断は無意味であろう。「秩序」「正義」「自由」は単語であり、単語というのは単なる記号にすぎない。その単語がどういう思想に裏打ちされて用いられるかで、危険かどうかを判断するべきではないか。
こういう考えは言語学者フェルディナン・ド・ソシュールの言語学に通じるかもしれない。これは言語を「指示部」と「対象」にわけ、「指示部」と「対象」の 結びつきは必然ではないとするものだ。「指示部」は単語のことであり「対象」は「単語の意味」ということになる。そしてソシュールは
単 語と意味の結びつきは無関係である分析している(単語と意味の結びつきは必然ではなく恣意性に任されているという)。つまり正義とはいえない思想や行為が 正義と呼ばれる可能性はいくらでもあり得ることなのである。なので正義という言葉を否定することは意味をなさないといえるだろう。

 ヒトラーは優生学に傾倒していた。優生学とは「社会ダーウィン主義」ともいわれ、ダーウィンの種の保存の考え方を社会一般にも適用し、力の強い人間や優勢な人間が勝ち残り人類が進化していくという考えである。

 この優生学に則り、ナチスは弱者救済を否定し、精神障害者や先天的な身体障害者を「安楽死」と称し て虐殺していった。優生学によれば、障害者は淘汰されるべき人間たちであり、彼らを生かすことは人類の進化のさまたげになるからだ。ナチスがこういう優生 思想に傾倒していったのも、ニーチェの思想と優生学に共通点があったためだった。ニーチェ主義と優生思想には「弱者救済を否定する」という部分が共通して いるのだ。ニーチェは『反キリスト』のなかで、こんなことを書いている。

「弱者と出来損ないは亡びるべし、――これはわれわれの人間愛の第一命題。彼らの滅亡に手を貸すことは、さらにわれわれの義務である(『偶像の黄昏 アンチクリスト(反キリスト)』(白水社)162ページ)」
 これはまさに障害者の虐殺に通じる思想といえよう。このようにニーチェは障害者を虐殺することを「愛」としたが、
実はヒトラーも『わが闘争』において、自身の闘争の目的に関わる重要な部分に「愛」という言葉をつかっている。早速抜粋しよう。

第二章『国家』『国民的誇りの喚起』(下巻 77~78ページ)
「自分の民族をするものは、民族のために喜んで身をささげる犠牲によってのみ、それを実証するのである。(中略)バンザイの叫びも、もしもその背後に一般的な健全な民族性を維持しようとする偉大なの配慮がなければ、何も国家主義たることを証明しないし、またその権利もない。」

第二章『国家』『国民的誇りの喚起』(下巻 78ページ)
「国家主義と社会主義の感情との親密な結婚は、まだ若いうちに心に植えつけられねばならない。そうすれば他日、共通のと誇りによっておたがいに結ばれ、鍛えられ、永久に揺るぎなき、無敵な国家市民からなる民族ができるであろう。」
(註,ナチス党"Nazis"の正式名称は「国家社会主義ドイツ労働者党」)

またヒューG・ギャラファー著『ナチスドイツと障害者「安楽死」計画』(現代書館)によると、障害者の虐殺をおこなったナチス親衛隊のヴィクトール・ブラック大佐はこの障害者の虐殺を「人類愛に満ちた行為」と呼んでいたそうである(63ページ)。

また、ナチスだけでなくオウムも「愛」という言葉をつかった。94年8月から10月にかけてオウム真理教は和歌山山中で「白い愛の戦士」という信者たちを合宿させ、武闘訓練をさせていたというのは有名である。無差別テロを目的としたこういう組織に「愛」という言葉がつかわれたとなると、愛という言葉も絶対ではない。

「正義」も「自由」も「愛」もナチス等がつかったということで、「勇気」が大事だ、という意見をもっている人もいるだろう。しかし、勇気ということ ばも、ヒトラーの『わが闘争』に何度もでてくる言葉である。それもそのはず、勇気とは、ヒトラーが影響を受けた哲学者ニーチェの、貴族道徳のなかにふくま れているからだ。以下、『わが闘争』から、勇気という言葉がつかわれている部分を抜粋する。

「自然は生物をまずこの地球上に置き、そして諸力の自由な競争を見ている。そして勇気と勤勉さで最も強いものが、自然の最愛の子供として生存の支配権を受けとるのだ。」
角川文庫版上巻『第四章 ミュンヘン』『ドイツ政策の四つの道』より(182ページ)

「(前略)この地上で滅亡、あるいは奴隷民族として他の民族の奉仕に心を煩わさねばならぬ危険から永久に解放されるような道を前進するために、わが民族とその勢力を結集する勇気を出さねばならない。」
角川文庫版下巻『第十四章 東方路線か東方政策か』『国家社会主義の歴史的使命』より(346ページ)

このうち、前者の抜粋は優生思想に通じており、後者の抜粋箇所はナチスの闘争そのものに勇気が必要とかかれている。

またヒトラーの総統大本営での発言を収録した本『ヒトラーの遺言』(原書房)では、
「われわれは、絶体絶命の勇気をもってたたかいを継続しなければならない(18ページ)」
というヒトラーの発言が掲載されている。

戦争には勇気がいるだろうから、当然ヒトラーも「勇気が必要」と言うわけである。問題はその勇気が、どういう方向にむいているかなのですが、そういうことを考え無しに勇気!勇気!と連呼するのは意味がないとおもえる。

「善悪二元論」を否定し、代わりに「自由が大事」だといったところで、結局は自由と抑圧(不自由)という事実上の二元論になる、ともいえるのではな いか。「善悪より愛が大事」という意見についても同様である。「愛があるか、愛がないか」の二元論にいきつくとはいえないか。これは「勇気」「友情」につ いても同様である。


<中略>

 

 

ニーチェの『権力への意志』は、ナチズムにもっとも強い影響を与えたと言われるものだ。ニーチェは哲学や宗教は無意味であり、権力への意志こそ 「人間の生きていく原理であり、人間を真に自由にしてくれる」ものであるという。そして、この権力への意志は「普通の人間が持っているのではなくて、『超 人』が一身に具現化しているもの」としていた。

 ニーチェは「人間の可能性を極限まで実現した人間「超人」が、既成の価値観(哲学や宗教など)を破壊し、神に代わって人類の支配者となる」という『超人の思想』を主張した。

 ナチスのヒトラーは、自らがニーチェの言う「超人」だとして、この思想を体現しようとし、人類史上最大のファシストとなったのだった(ヒトラーの起こした惨劇は、ニーチェの思想を「世の中の役にたてよう」としておこったと言える)。

 

 

(転載終了)

 

ヒトラーは「正義」よりも、「自由」や「愛」や「勇気」という言葉を好んで使っていたようだ。

正義を抜きにした自由や愛や勇気は、強者が他者を支配する言語として利用されてしまう。

人を支配する自由や、好きな者だけをえこひいきにする愛や、闘いに敗北した弱者を奴隷にする勇敢さなど。

まさに、ナチスの実践した政治そのものだと言える。

 

自由も愛も勇敢さも、健全な正義と融合することで有効に活用されるものなのだ。

 

特に愛は、正義を形成する基盤になるものだとキング牧師は言う。

 

(転載開始)

 

ベトナム反戦運動と同時期にアメリカでおこった黒人解放運動である公民権運動で活躍したキング牧師も演説で二ーチェの思想に批判的な発言をしたことがある。
「隣人への関心を部族や人種や階級や国家を越えたものへと引き上げる世界的連帯意識へのいざないは、実際はすべての人間に向けられた普遍的で無条件な愛へ の招きでもある。この愛はしばしば誤解され間違って解釈された概念であり、二ーチェのような人々によって惰弱で臆病なものとして簡単に排除されてきたもの だが、しかし人類が存続していくために絶対不可欠なものとなっている。(『私には夢がある M・Lキング説教・公演集』(新教出版社)180ページ)。」

上記のように、キング牧師のいう「愛」とは「すべての人間に向けられた普遍的で無条件な愛」であって、これは人類愛のことだろう。古代中国の思想 家、墨子の「兼愛」という思想も「自他・親疎の区別なく、人々を全く同じように愛すること(三省堂 大辞林より)であり、古代中国にも人類愛と同じ価値観 があったとなると、人類愛は決して西洋独特の価値観ではないといえる。

キング牧師といえば「私には夢がある」という言葉が有名だが、この言葉がでた1963年8月のリンカーン記念堂における演説では、結構「正義」ということばが頻繁につかわれています。
「私には夢がある。今、不正義と抑圧の炎熱に焼かれているミシシッピー州でさえ、自由と正義のオアシスに生まれ変わるだろうという夢が。(103ページ)」

この演説に限らず、キング牧師は演説で正義ということばをかなり多くつかっています。
「愛はキリスト教信仰の要の一つである。だがそこには正義というもう一つの側面がある。そして、その正義とは現実的利害関係において実現される愛のことだ。正義とは愛に対立するものを正す愛のことだ。(中略)愛の傍らには常に正義がある。」(24ページ)

「正義が一時的には打ち負かされたとしても、結局正義は勝ち誇った悪に優るのである。」(125ページ)

 

<中略>

 

前述のようにキング牧師の演説で「愛の傍らには常に正義がある」という言葉があるが、この言葉は、聖書の「愛は不義を喜ばない」という箇所が直接な いし間接的に影響した結果でてきた言葉ではないかとおもえる。つまり「愛は不義を喜ばない」ので「愛は正義をもたらすもの」であり、だから「愛の傍らには 常に正義がある」ということだといえます。

そうなると「愛こそすべて」というのは「愛は正義をもたらし、また正義以外の様々な有益なものも世の中にもたらす」ものであり、だから「愛こそすべて」だ、という意味に解釈ができるとおもえる。
90年代の国内マスコミにおいて「愛こそすべて」というフレーズは、しばしば「愛があれば正義はいらない」という意味に解釈されていた。しかし、上記のよ うにキング牧師が「愛は正義をもたらす」というような意味のことを語っていたとなると「愛こそすべて」は正義を否定している言葉ではないと解釈できるので はないか。

 

 

(転載終了)

 

キング牧師の述べる愛とは「すべての人間に向けられた普遍的で無条件な愛」であり「人類愛」のことである。

そして、人類愛を現実に実践することを「正義」と呼ぶと。

 

ところが、ニーチェやヒトラーの愛とは、自らが執着する何らかの対象である。

その愛は人類には向けられておらず、特定の民族であり、特定の能力である。

ここにナチスが実践した極端な民族主義、極端な能力主義が形成される基盤があった。

 

つまり、人類愛を基盤にしない「愛」と、そこから導き出される「正義」は、著しい人権侵害を生じさせる危険な要素をはらむと言うことだ。

 

現代の民族主義、国家主義、能力主義、権威主義に対する警句である。

 

最もヒトラーの場合は良心そのものを否定し「私は人類を良心というキメラから解放するのだ」と述べた。

天意は、私を最大の人類解放者に定めた。私は、人間を自己目的と化した精神の束縛から解放する。キメラと名付けられた良心と道徳による、汚らわしい屈辱的な呵責から解放する。自由と個人の独立という要請から解放する。この様なものに耐えられるのは常にほんの僅かな人々なのである。

— アドルフ・ヒトラー

 

 

良心を否定するのは悪の思想だ。

ニーチェの思想が良心を否定したがる悪人達に称賛され続けているのは、善悪を否定し、強弱のみに価値を認めるからだ。

そのために時代を超えてニーチェは悪のアイドルとして人気があるのだ。

 

道徳の否定は、哲学、思想、宗教、法律など人工的なものに対する軽蔑を引き起こす。

そして、弱肉強食の自然への崇拝といった原始社会のルールを肯定することになる。

ニーチェとナチスがともに自然崇拝主義だったことが以下に書かれている。

 

(転載開始)

 

ニーチェと自然

「善悪」を否定すると、社会はより自由になる、と思っている人もいるかも知れない。しかし実際は「善悪」が無くなっても個人の能力差は歴然と存在す るため、「強弱」だけの世の中になるのだ。つまり「強いものが勝つ」というだけの単純な事実上のファシズムの社会になってしまうのである。某助教授はニー チェの影響をうけていて講議で「生は全く無意味だ。世の中に善悪はない、強弱だけである!」と教えてたという。

 

<中略>

 

 前述のようにヒトラーはニーチェと優生学に傾倒しており、弱肉強食や自然淘汰といった自然界の法則を人間社会に置き換えたのがナチスの社会だっ た。これは、人間がつくったものにすぎない道徳など否定し「宇宙の秩序」に従うという名目によるものだったようだ(英語ではこういう宇宙の秩序のことを cosmos(コスモス)という)。「人間のつくった道徳やイデオロギーなどあてにならない。なので自然の摂理にしたがうべき」という意見も、近年日本の 言論人たちの間でよく言われることである。

ヒトラーの著書『わが闘争』にも、こういったイデオロギー批判は書かれている。該当する部分を抜粋しよう。
「この遊星はすでに幾百万年も、エーテルの中を人間なしで動いていたのであり、もし、人間は自分の高等な存在を、二、三の正気でないイデオローグたちの観 念にではなく、自然の鉄則の認識と、断固としたその適用に負っていることを忘れる場合には、わが遊星はいつかふたたび、そのような状態にもどっていくだろ う。(375ページ)」
角川文庫版上巻 十一章『民族と人種』『人間と観念』より

蛇足だが、90年代以降の日本には、論理的な思考を放棄し、直感を絶対視するブームもあり、現在(2004年)定着している。人間の直感的な判断は右脳がおこなっていることから、直感をきたえる「右脳開発法」が書かれた本が話題になった。
しかし
『ナチスドイツと障害者「安楽死」計画』には、ヒトラーが直感を頼りに判断する人間だったと書かれてある。

「ヒトラーは複雑な男だった。洞察力で判断するタイプの指揮者で、直感に従って決断をくだしたという点でリンカーン、ルーズベルト、そしてロナルド・レーガンと同様である。(『ナチスドイツと障害者「安楽死」計画』40ページ)」

ヒトラーが直感による判断をしていたとなると、直感も相対的なものだといえるだろう。こういうヒトラーの直感への妄信は、前述のイデオロギー批判の延長だといえるだろう(直感が「自然」で、理論は「人間がつくったもの」というような)

 

<中略>

 

 ナチスはユダヤ人を虐殺したが、これもニーチェの影響であった。ニーチェの思想は、事実上のユダヤ人批判でもあるからだ。

「道徳(善悪)とは、弱者のねたみから生まれたものであるから意味がない」というのが、ニーチェの道徳批判だ。これはルサンチマン論といわれる。
 古代ローマは紀元前1世紀にパレスチナを制服し、ユダヤ人を奴隷にしていた。この時代、奴隷としてこき使われるユダヤ人がローマ人をねたんだ。そしてユ ダヤ人のねたみから「弱者を救済する」「他者に迷惑をかけない」ということを「善」とする価値観がうまれ、それがキリスト教になった。ユダヤ人はキリスト 教をローマに広めた。このキリスト教の価値観が奴隷道徳であり、今の一般的な道徳の概念の元になっている。これがニーチェが分析した道徳の起源でである。

 

<中略>

 

 ニーチェのルサンチマン論の真偽はともかく、善悪を取り去った社会が強弱だけの社会になるということから考えると、道徳とは「弱者にいかに生きる権利をあたるか」ということから発祥したのだろう。
 現在、弱者ではない人が、未来に弱者に転じないという保証はなにもない。未来のことは誰にも分からないからだ。現在弱者ではない人でも「自分が弱者に転 落したとき、社会が弱者に対しなんの保証もしなかったら」と考えると、不安になる人がほとんどであろう。そうなったときのためにも、弱者を救済する「道 徳」というものが社会に必要なのではなかろうか。

 

<中略>

 

、オウム事件後の「正義否定論ブーム」の後に、ニーチェ主義的な「善悪相対主義」は一般常識(あたりまえのこと)といえるところまで一般市 民に浸透してしまったようにおもえる。現在の日本人はニーチェの名前を知らなくても、ニーチェ主義的な価値観は誰もがしっている。ニーチェのニヒリズム (背徳主義・虚無主義)は、日本社会において「インテリ的な思想」として認知されステイタスになった。

80年代ぐらいから「道徳というものを守っている人間は、ヒトラーみたいな独善的な人間になる」というような認識が日本人に少しずつ浸透してきた感 があった。そういう認識が浸透した理由は、前述の「正義=ヒトラー」というイメージが一人歩きした結果かもしれない。そして背徳主義はインテリの思想であ るというような認識が、この当時から一般市民に浸透していったように思える。

ニーチェ主義者の言論人たちは背徳主義を否定する意見を「道徳の復権」という言葉で、あたかも保守思想であるかにいって揶揄する。が、実際は「善悪 の否定論」が定着した現在の日本社会こそ、60年代に一度起こったニーチェブームの再来であり、そういう意味では近年の日本社会でのニーチェ主義の浸透ぶ りこそ「ニーチェ主義の復権」だったと言えるだろう。


<中略>

 

宮内勝典の『善悪の彼岸へ』によると、宮内氏はそれまで50数カ国をあるいてきたが、そのなかでも日本社会ほどニヒリズムとシニシズム(冷笑主義) が浸透している国はみたことがないという(260ページ)。これは、やはり日本はニーチェ主義やニヒリズムこそが進歩主義だという世論をマスコミが形成し たことが原因だろう。「ニヒリズムこそ左翼だ」という奇妙な誤解が日本には定着した。日本は国際的にきわめて特殊な社会になってしまったようだ。

ナチスというのは、いわゆる背徳主義(ニーチェ主義)から始まったということを、今まで述べてきたのだが、現在日本人のニーチェ主義者は「背徳主義こそナチスから遠ざかる最善策だ」とだれもが妄信している。

 

(転載終了)

 

日本の知識人の多くが、正義を否定する背徳主義こそ、全体主義から遠ざかる最善策と考えていたという。

確かに歴史を見れば「正義」を掲げて人権侵害をした事例が数限りなくある。

魔女狩りや異端審問を行ったローマ教会や、戦争の口実に利用した国家権力、二〇世紀の一党独裁型社会主義などは全て正義を掲げて、多数の人間を殺してきた。

またナチスは、弱者に配慮する良心は否定したが、ゲルマン民族への愛からくる支配欲に基づいた正義を唱えた。それが侵略戦争につながった。

 

一方で、正義を否定する背徳主義、価値相対主義が健全かというと、善が弱まるために、弱肉強食を是認することになり、残酷性を許容する社会になる。

 

この弱肉強食の肯定は、現在のアメリカにおいて福祉を切り捨てる新自由主義という形で猛威をふるっている。

 

ここで問われるのは、

他者の人権を侵害しない健全な「正義」であり、

弱肉強食の全面的な肯定に対する否定である。

 

次回は、ニーチェ主義と現在のアメリカ社会を中心とした新自由主義の関係と、正義のあり方について掲載する。

 

 

(記事終了)

 

 

 

クリックして拡散のための応援をお願いします


br_c_4523_1.gif
社会・政治問題ランキング  

 

 

■勉強会のご案内 真の民主社会を創る会

 

<リンク>3/3(土)歴史を見れば金融バブルの崩壊は実体経済の好不調に関係なく起こる、など

 

 

■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■

 

■フリーメーソン最上層部ユダヤ系国際銀行権力に操作される日米欧の自由民主制(資本主義経済と民主政治)のモデル

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

■民主主義の完成を目指す理想の社会モデル(下の図)