2018年04月01日

唯識入門

来てくれてありがとう。



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今日は日曜日。

もっとも本質的な話をしましょう。


たとえばいま、こうしてこの記事を読んでいるでしょ。

いつもの習慣で、「私が読んでいる」と思っているでしょ。


そこには「私」と「読む」という作用の2つがありますね。



私は、いましている体験と離れて存在していると信じています。



私が見る


私が考える


私が歩く


私が食べる




身体の中の作用はどうでしょう



私が消化する


私が濾過する


私が血液を送る



変な話ですよね


「私」がやっているわけではないからです。




禅師たちはよく、「私を探してごらん」と言いました。

あったらここに出してみよとね。



私というのは、ひっきりなしに頭の中で作られている幻影。

それは特定の外形を持ち、名前を持ち、公務員だったり、フリーターだったり、母親だったり、父親だったりします。



実際にはそのようなあなたは実在せず、あなたというのは、そういう人物をマインドの中で作り出している「意識」です。


あなたが読んでいるのはなく、読むという意識作用だけがあります。


文字が見えていて、その文字を解釈しているという意識作用だけがあります。


そして「読んでいる私」という意識作用があるのです。




これが起きていることのすべてです。



昨日の話が中級者コースだとすれば、今日の話は上級者コースです。



これは最も大切な情報だと思います。


だってこのことがわかれば、何から何まで全部解決だから。



マインドはこのことについてあれこれ考えるけれど、考える中身が何であれ、それらは的外れです。


なぜなら、ただ、考えるということが起きているだけのことだから。



わからなくても大丈夫。


わからないという思考が起きているだけだから。


あなたは、それらの思考を認識している意識です。



唯、意識だけがある。


それが唯識。



※今日使用した「意識」という言葉は、唯識では「心(識)」と言っています。

唯識に出てくる意識という言葉は、全体としての意識ではなく、マインドの作用のことを指します。


見えているというのも、心(識)の作用であり、それを眼識といいます。


聞こえているというのも心(識)の作用であり、それを耳識といいます。


考えるというのも心(識)の作用であり、それを意識といいます。



これが唯識と呼ばれる思想であり、あらゆる仏教の根本にある最も大切な教えです。


この理解を普及させることが、一切衆生の救済につながっていきます。



ちょっと難しくなってしまいました。


またゆっくり考えてみてください。


あなたが考えるわけではなく、考えるという作用が起きるだけですけどね。



唯識入門




いい休日を。




唯識入門




・・・・・・・・・・・・・



【お知らせ】


4月の瞑想伝授は東京と大阪です。

5月は名古屋

6月は博多

に伺います。





Posted by Toshiro Abe at 10:55│Comments(31)
この記事へのコメント
朝から落ち込んでいましたが、今日の記事を読んでずいぶん気が楽になりました。
Posted by えふさんごびい at 2018年04月01日 11:48
阿部さん、こんにちは。
唯識の事、全く存じ上げておりませんので、
少しづつ、理解できたらと思っております。

今、蓮の池が目の前にあり、見渡す限りの数十種類の草花に
囲まれております。
意識をシフトすると、幻想現実はあっという間に変わる事を
小さな所から、実感しております。

風も心地よいです。
こっちを選択して良かった。

選択できる心の軽さを持てるようになって幸せです。

でも、あっちーーー、日差しが、やべーーー。
Posted by まこ at 2018年04月01日 11:58
十数年前に 唐突に
「探してごらん、私はどこにもいない」という言葉が浮かんできて、なんだか意味深だけど詩のような言葉だなぁと思ってました。
なぜ浮かんだかはわからないのですが、もしかするといつかどこかで目にした言葉だったのかもしれません。
今日の阿部さんの記事と符合していて面白いです。
Posted by Ally at 2018年04月01日 12:05
何か?の絵
とっても可愛い(^_-)-☆

そうです。わたしは意識です。
すべては意識。さあ、楽しもう!
Posted by ラブ×3 at 2018年04月01日 12:05
確かに、歩くのは足で、考えるのは頭の(脳)で、食べるのは、口ですね。
消化するのは、胃などの消化器官です。

これに、「わたしの」がくっついてしまうのが、私たちの意識なのですね。

わたしの足が歩く。
わたしの頭が考える。。。など。

わたしの肉体、わたしの心、わたしの人生。。。など。

この「わたし」という意識ですが、顕在意識の時は常にありますが、寝ている時は、ありませんね。

顕在意識=わたしという意識、と言えそうですね。

この意識は、いつも自分で認識しようと思えばできるので、表面上の意識とも言えますね。

しかし、心は、自分ではなかなか意識できない潜在意識をも含んでいるので、
心においては、意識の層は、多層になっているということなのでしょうね。

唯識のお話、とても参考になります。

わかりやすく説明して下さるので、有り難いです^^
Posted by 真理世 at 2018年04月01日 12:07
特等席のベンチが私の為に待っていてくれていたみたい。
他の席はお昼どきで随分込んでるけど、ここだけ人もまばら。
でも、ここからの景色が一番最高だと思う。
写真に撮ってこの楽園をみせてあげたい。

ここのベンチに、誰も座っていなかったことが不思議なくらい。

でも、その理由がわかった。
日差しが、全開だからだ。
ジリジリしております。
水の流れる音と子供達の遊ぶ声が心地いい。
Posted by まこ at 2018年04月01日 12:15
いつも、ここにすわってるのよね~~って引き返していった家族がいました。
私はここにベンチあるの初めて知ったけど。
穴場だったのか。

阿部さん、ただ、識だけが、ある。のが、どうして救済になるの?

と、マインドくんが質問しています。

あっ、ここのベンチに一緒に座ろうとする老夫婦がきた。
日差しが、建物の影になり、風、さむ。
Posted by まこ at 2018年04月01日 12:55
>私というのは、ひっきりなしに頭の中で作られている幻影。

考えている間だけ、考えている自分が存在する…

なので、今ここを生きて、考えなくなれば自分は消えて
三昧に入る。ソレそのものになる。

心を込めて皿を洗う、心を込めて掃除をする、心を込めて…

今ここを生きる練習をすることで、本当の自分はソレそのもの
という頭だけの理解から抜け出すことが出来る



一方で…

自分が存在していると思って生きても、本当は起きているようで起きていない

いつの日かこの世界をサヨナラする日まで
自分が存在しているという幻を楽しもう!

という人たちもいることでしょうね

人生☆人生☆

ありがとうございます
Posted by 甲賀忍者 at 2018年04月01日 13:26
今日の記事は早送りです。

だって分かっちゃったら面白くないでしょ~(^^)


『唯、意識だけがある。


 それが唯識。    』


終わり?!(笑)


横山先生~~~!!

(^^)
Posted by ぶどう at 2018年04月01日 14:04
何が何か分からない、助て下さい。
Posted by masahiro at 2018年04月01日 14:13
わかったんだけど、わかったという作用が起こっただけですがな。
ひゃはっはっは。
Posted by サンマリー at 2018年04月01日 15:17
いつもありがとうございます。
唯識の解説ありがとうございます。
善き一日になりますように。
Posted by ほったん at 2018年04月01日 15:31
以前阿部さんが話しておられたスピリチュアリズムとノンデュアリズムの違いですね。
昨日のお話は解っても今日のお話はそう簡単には解らない。
でもここにしか救いはない。
このブログが凄いのは他と全く一線を画していながら易しい言葉を工夫されている。
今も評価されてますが、この先凄いことになってい来そうな予感がします。
お身体だけはきをつけて下さい。
Posted by KEN at 2018年04月01日 15:50
>私が見る

>私が考える
(以下省略させて頂きます)

「私の『目が』見る」
「私の『頭が』考える」

自分の場合、子供の頃からこんな感じでした。
特に「考える」については、「『何故か』こう考えている」という感じでした。
なもんで、

「どうしてそんなことを言うのっ!!」
「わかんない」

でした(笑)

なんかわかんないけど、いろいろ湧いてくるので、その時々で必要なこととか、
やっとけばいいだけですよねー。

でも、子供の頃、

「自分の頭で考えろっ!!」

と、毎日怒鳴られ、時には殴られて、
それが嫌なので、必死に自分の頭使って考え始めましたが、
それも
「なんか知らないけど、そう言われてるから、
 その時々でてきとーに頭が考えてくれればいいや」
みたいに『お任せ』できてたら、もっと楽だったかもなー、とは思いますが、
まぁそれもなんか知らないけどそうなりましたし、それ以外無かったんだろう、
と思うことにしています(笑)

今の時代の子供たちは、早くからこちらの記事とかに触れて、
大人になっても、心身から起こるままに素直に、
のびのびと生活できればいーなー、と思います。
Posted by ただの「自分」 at 2018年04月01日 16:12
>私というのは、ひっきりなしに頭の中で作られている幻影。
>それは特定の外形を持ち、名前を持ち、公務員だったり、フリーターだったり、母親だったり、父親だったりします。
>実際にはそのようなあなたは実在せず、あなたというのは、そういう人物をマインドの中で作り出している「意識」です。



家族関係にこれを応用すれば、全体として何事も対処できるかなって思った。起こる事への信頼からの関わり方に変化するのではと思う。

職場も、そんな感じだと辛くなることは少ないと感じます。。
コメントしながら、意味わかってはいません。

唯識を理解すると、流れにスムーズに移行てき、流れに上手く乗れないときも、スムーズに生きられると思いました。

勝手な想像の感覚でコメントしてしまいました。

答え合わせ楽しみです。
一人一宇宙だから、違ってても大丈夫です。
唯識を正しく認識し、家族との関係性に上手く応用できたらいいなと思いました。
Posted by もちか at 2018年04月01日 16:24
みんな、その時のシュチュエーションと役回りで動いているんだなあと感じます。
それらが起きてることなんだろうなって。
Posted by 薄茶色 at 2018年04月01日 19:12
毎日ブログを拝見しています。
わかること、わからないこと様々ですが、とても大切なことに触れているという感じはあります。
今わからないことはそのままにしておくしかないので、そっと置いておきます。
ブログを読み続けるうちに、人との関係が少し楽になってきたかな、と感じています。
思いがけない小さな✨もありました。
阿部さん、毎日の発信ありがとうございます(^-^)
Posted by ゆったりゆみこ at 2018年04月01日 19:33
今起きてることが全てであり、私とはその当体そのものであり別に何かが存在するわけではない。

一番簡単なことではあるけど、人は賢くなりすぎて一々説明する必要があるって?笑い話ですよね?

その簡単なことを丁寧に説明していますよね。

真摯に伝えたいという気持ちが伝わってきましたよー
Posted by 通りすがり at 2018年04月01日 19:59
どこにもくっつくところはない。
と、、新幹線の風の音のように流れていった。
もし私が本当にあったら、、どうなるのだろう。
Posted by AYAKO at 2018年04月01日 21:15
阿部さんのきょうの話しはさっぱりわからない。
どうしようともせず、ただ、ふーんって聞いていればいいんですか?

頭で理解しようとすると、そのわからなさに気分が悪くなってきます。
「わかる」とはどういうことなんでしょうね?
Posted by sabrina at 2018年04月01日 21:32
私はぐうたらです。

私は酔っ払いですwww

情けない。
ダメダメですが、
そんな自分が大好きですwww

やっと、あべさんと会えるかも知れない。
今は泣いていますが……
とても楽しみです。


(*゜▽゜)ノ
Posted by D at 2018年04月01日 23:06
今日はイースターサンデーでした。

イエス キリストの復活祭。
十字架に架けられて死んだイエスが復活した、とされている。

イエスの「何が」復活したのか?

肉体?
それが=私だから、イエスの肉体が復活した事によって、「私」は永遠の命を受けられる事ができる?ゾンビと何が違う?

イエスは肉体を超えた、永遠の命を見せたかったのか?生き返れるよーと言いたかったわけではあるまいし。

阿部さんが言われていることを噛み締めるごとに、偉人達が伝えたかった事が、明らかにみえてくる。(気がする。気だけw)

Happy Easter!
Posted by 遊 at 2018年04月01日 23:14
なぜに、識の漢字に( )つけたのか、いまだに解読できません。
明日の朝、ピーンとくるかな?

おっ、まじいま、きた!!

認識の識だ!
これが、ミソなんだきっと。
明日が楽しみです。

上級者コース静かに燃えてきた。ぼっ。
Posted by さっちん at 2018年04月02日 00:16
心は、低次機能のマナス(意思)と高次機能のブッディ(理智)、
そして記憶の倉庫であるチッタ、わたしという意識であるアハンカーラ、
この4つで構成されている、とヴェーダでは言われており、
そして、心の最奥に、真我(アートマン)が静かに鎮座している、と言われています。
(一方、仏教では、アートマンは否定されています)

インド発祥の仏教とヴェーダの考え方の中に、類似点や相違点を見つけるのも、面白そうです。

唯識のお話、続きを楽しみにしています^^
Posted by 真理世 at 2018年04月02日 02:57
わからなくても

大丈夫

大きい背丈の夫

隣で寝ている夫は
背が低いから

やっぱり
魔法のランプを持った
アラジン
Posted by momo at 2018年04月02日 03:13
身体の中の作用はどうでしょう
>私が消化する
>私が濾過する
>私が血液を送る
>変な話ですよね
>「私」がやっているわけではないからです



 ほんまや、だれが、やっとんねん!
ドイツかわてのカラダの中、勝手におこらしめてねん!
ででこいやあ!
ちきしょー!(ププ)
Posted by たかこ at 2018年04月02日 05:53
>禅師たちはよく、「私を探してごらん」と言いました。

>あったらここに出してみよとね。


だんなにこの問題をふっかけてみたい。

あいつなら無理矢理だしてきそう(笑)

そのまえにそんな変な事考えるひまがあって
おめだぢ、うらやましいで!って、、、、

あっ、やべ、過去でできあがった旦那また引き寄せたちゃったあ(笑)
Posted by まいだんな at 2018年04月02日 05:59
やっている自分はいないのに、引き寄せの『いい気分でいる』ってどういうことですか?気分は浮かんでくるものなんですよね?選べないですよね?然る時にしか、いい気分でいられないと思うのですが…。いつもここがわかりません(´;ω;`)
Posted by こじか at 2018年04月02日 09:28
えええ~!!!!!と衝撃をうけました!
そう言われてみればそうだ!呼吸だって知らない間にしているなあ・・・!!!
う~ん、そうだったのか・・・。

私のふりをしてライフが・・・と菜穂さんがよくおっしゃっていることや聖書の髪の毛1センチも伸ばせないとか野のユリのたとえ話とか、阿部さんが常々教えて下さっていることなど、今まで聞いてきた色々なことが今日のブログのお陰様で響いてきています。

おおきな流れ?エネルギー?愛?の仕業で私ではないと思うと、たいへんに気が楽になります。

そして今朝は、その何かが楽しい喜ぶ流れに乗った一日を気分よく過ごそう!と鏡を見て思いました。
Posted by ミチ at 2018年04月02日 10:37
小学生のころ親から、「世間に恥ずかしくないように」「世間のお役に立てるように」などと言われ、「世間ってものが本当にあるのなら、目の前に出して見せてよ!」と喧嘩を吹っかけていたことを思い出します。
外側の存在が、認識の枠を嵌められた幻なんじゃないかという感覚は昔からあったけれど、まさか「私」というものまで、取り出してこれと名指しすることのできない、実体のないものであったとは。

この本当はきっとシンプルだけど、当事者には分かりにくい感覚を、繰り返し伝えて下さってありがとうございます。

それが本当だと直ちに納得はできなくても、阿部さんのブログに力と安心をいただいています。
Posted by れいこ at 2018年04月03日 06:06
れいこさん

「世間」という名の外側の存在が認識の枠を嵌められた幻(実体のない)であり、
その世間に「私」という実体のない(幻)を登場させていた。

ということに気付かれたということですね。
いまここで安心に止まっていれば、納得は自然と訪れますので大丈夫だと思いますよ。
Posted by 模察模察 at 2018年04月03日 10:59
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