炎の城と氷の婚姻_第二章_10

溜まった書類にサインをしながら東の方の不穏な動きの対応について裁決を下すだけ。

そんなつもりで後宮を出たら、くだらない私利私欲に満ちた法令を通したいだけの大臣達に捕まって無駄な時間を過ごしてしまった。

アントーニョは思いのほか経ってしまった時間にいらつきながら、ようやく戻ってこられた正妻の離宮の廊下を駆け抜ける。

なんとか夕食前には戻ってこられたからまだいいが、本当なら愛しい花嫁の寝顔を存分に眺めながら、うなされているようなら起こしてやり、汗が酷いようなら拭いてやり、額のタオルを換えてやると言う大事な仕事があったのに…。


今日引き留めた大臣達の顔は忘れない。

しっかりと王が集権出来るようになったら、真っ先に左遷してやる…とアントーニョは心の中で毒づいた。


走り抜ける後方ではゾフィーが『おかえりなさいませ』などと言っているが、気にしない。

目指すは花嫁の寝室だ。


リビングを駆け抜け、左手奥の寝室のドアに飛びつく。

ここは一気に開けたいところだが、アントーニョの花嫁はデリケートに出来ているのだ。

だから驚かせないように、しかし眠っているなら起こさないように、とん、とん、とん、と3回だけ小さくノックする。


返事はない。

眠っているのだろう。


まだだいぶしんどいのだろうか。

アントーニョが部屋を出た時にはまだたいそう顔色が悪かった。

ゆっくり休んで少しは良くなっているといいが…と思いながら、そーっとドアを開ける。


日が落ちかけて少し薄暗い室内。

足音をたてないようにベッドに忍びよると、天蓋をそっとめくってベッドを覗き込み……

硬直する。


右を見て左を見て…もう一度寝ているはずのベッドに花嫁がいない事を確認すると、アントーニョは踵を返した。


寝室を出てすぐのリビングにはゾフィーとギルベルトがいる。


「アーティは?!部屋におれへんのやけど。」

と、ゾフィーに問えば、ギルベルトにお茶をいれるためにポットを持ったゾフィーの手がピタっと止まった。


「…寝室から出てはいらっしゃいませんが……。

庭にでも……?」


アーサーの事に関してはアントーニョは沸点が限りなく低いので、さすがに影で後宮のぬしと囁かれるゾフィーでの語尾が小さくなる。


しかしアントーニョはそんな老メイドの様子など気にも留めず、

「まだ起きたらあかんやろっ!ましてや日が落ちかけて寒くなってきとんのに、庭なんて、悪化してまうわっ!!」

と、誰にともなく怒鳴って、寝室へと踵を返した。


自分が出た時には顔色が良くなかったが、少し元気になって退屈になったのだろうか…

それならなおさら側にいてやれば良かった…。


ガラっとガラス戸をあけ、アントーニョは外に出る。

少し肌寒い風が暑がりのアントーニョには心地よいが、まだ熱が下がりきらない花嫁には寒すぎるのではないだろうか。

早急に連れ戻そう。


バルコニーから飛び降りて、庭の中心部に疾走しかけて、アントーニョは小さな気配に足を止めた。

注意をしていないと通り過ぎてしまいそうな小さな小さな気配。

しかしアントーニョはそれを見逃さなかった。

バルコニーの右手の大木の影、白い布がチラリと覗く。


ズキン!…と、何故だか胸が痛んだ。

何故か恐ろしい…だけど、行かないという選択はない。

緊張しすぎて震える足を叱咤する。


「…アー…ティ?」


そう、その白い布はアントーニョ自身が手配した花嫁の寝間着だ。

ということは…花嫁はそこにいる。


「っ!!!アーティーっ!!!!」


覗いた木の陰で真っ白な固まりが倒れていた。

血の気の失せた顔。

苦しげに寄せられた眉。

ぎゅっと苦しげに寝間着の胸元をつかんだ小さな手。

服は冷え切っているのに熱い身体。

ひゅぅひゅぅと明らかに通常とは違う呼吸音。


「ギルちゃんっ!!!ギルちゃんっ!!!!助けたってっ!!!!!」


慌てて怖いほど軽い小さな身体をだき上げる。

どうしようっ!!!
心臓が苦しいほど脈打ち、ひどく痛む。

もう冷静になんて考えられるわけがない。

大事な大事な花嫁が死んでしまうかもしれない。


アントーニョは泣きながら花嫁を抱えて部屋に戻ると、ギルベルトの名を叫んだ。

ギルベルトなら絶対にどうにかしてくれる。

ギルベルトはいつだって自分が本当に嫌な事にはならないようにしてくれるはずだ。


理由なんてない。

ただいつもそうだったから。

今回も絶対にそうだ。


「アーティ、アーティ、大丈夫、ギルちゃんがなんとかしてくれるからなっ!」


ベッドに戻して声をかけるが、当然ながら返事はない。

アントーニョの大事な大事な花嫁は、ただただ苦しそうに荒い呼吸を繰り返している。


「ちょ、診せろっ!!」


アントーニョの叫び声に血相を変えて部屋に飛び込んできたギルベルトは、ゾフィーにもう一人のベテランの医者を呼ぶように指示をしつつ、ベッドに駆け寄ってくる。


そして、ベッドに横たわらせた花嫁を見てサッと顔色を変えた。





厳しい表情をしたギルベルトに少し下がっているように指示されて、アントーニョはベッドから数歩下がってグッタリとした花嫁をギルベルトに託した。

途中で今までの老医師も駆け込んでくる。


数十年も医師を続けているベテラン医師と何でもなんとかしてくれるギルベルトが揃った。

もう大丈夫なはずだ…。


消えない不安。

それでもアントーニョはそう思った。

祈るような気持ちでギルベルトが声をかけてくれるのを待つ。


「…トーニョ」


やがてかかった声は随分と固い声だった。

そして続く言葉がアントーニョをつき落とす。


「………一応な、覚悟はしておけ。」


「…覚悟って……何を?」


頭の中が真っ白になった。

足元が心許ない。

クラリ…と、世界が回りかけて、慌てて駆け寄ったギルベルトに支えられた。


「…ギルちゃん……助けてくれるんちゃうん?」


口の中がカラカラに乾く。

信じられないようなモノを見る目をギルベルトに向ければ、ギルベルトは辛そうに、しかししっかりとその視線を真正面から受け止めて言った。


「打てる手があれば尽くすが…覚悟はしておけ。

肺炎おこしかけてるし、胸か胃か、どこか痛えみたいなんだが、意識戻らないと判断しようがねえ。

熱もすごくあがってきてるし、衰弱しすぎてて今夜越えられるかがわかんねえ。」


それはさながら死刑宣告より冷たく響いた。



喉の奥から何かがこみあげる。

目の奥が熱い。

潤んだ視界の先に花嫁が横たわっている。

苦痛にゆがむ幼い顔。震える体。

こんなに苦しそうな表情をするのを初めて見た。

もしかして…ずっと堪えていたのだろうか…


…堪忍……

言葉は音にならなかった。


部屋を出る前、確かに顔色が悪かった。

あの時にはもうすでに症状はあったのだろう。

痛くて苦しくて…でもそれを訴える事無く、笑顔で自分を送りだした。

離れていた5時間ほどの間、1人で苦痛に耐え続けていたのか。

たった1人で。


「…ギルちゃん……」

視線は花嫁に向けたまま、アントーニョは口を開いた。


「…ん?」

「親分…死ぬわ。」

「はあ??」


少し離れて様子を見ていたギルベルトが慌てて駆け寄る。


「お前、何言ってんだ??」

「……5時間以上や…」


ギルベルトの反応など気に留める事無く、肩を落としたままアントーニョは言葉を続けた。

無表情に…なのに目からは涙がこぼれる。


「…ずっと1人で苦しんどったんやで?
1人にしたない…。

この子がもしこのまま死んでまうんやったら、親分も一緒に行ってやりたい…」


そこまで言うと感極まったのかアントーニョは片手で口元を押さえて号泣する。


「…あー……」

と、ギルベルトは右手を額に当てて天を仰いだ。


とりあえず今何を言ってもアントーニョは聞かないだろう。

花嫁が死んだら…という話なので、今言うだけ無駄だ。


死なせねえようにするしかねえ…とは思うものの、医師としての経験値が少なすぎて正直どうして良いかわからない。

怪我に対してなら正式にではなくとも、それなりに知識もあり対処も出来るのだが……。


かといって、こうと思いこんだアントーニョの軌道を修正するのも難しい。

それでもなんとかしなければならない。


どうするよ…俺様……


シン…と静まり返った室内。

ギルベルトは今までにないレベルで、心底途方に暮れた。



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