スカッ晴れ♪

大阪からノーコン乱投 発信

昭和の片隅から

2018年01月20日 | 日記


昭和30年代、オヤジの発病から住まいを転々とした。
結局、一命を落とし母と二人になった頃
息子が罪を犯し、刑務所で服役する老婆独り住まいでの
間借りから、四畳半一間の木造アパートになった。

そこには同級生や近い年齢のものが数人いた。
密かに幼い恋心を抱き合った女や、団塊の世代の
先輩、いま振り返っても先輩ながらゲスなクズも
居た。
その時代の大阪の様子は作家・宮本輝の著作に詳しい。

母親と二人の住まいにはテレビが無かった。
階下の御宅で、正座をしながら夜の遅くまで
見せて貰っていた。
親と子供さんが四畳半に五人も生活している中で
なぜ、私が片隅で正座をしながら観れていたのか・・・
当時の日本の世相だろうな。

それも、ある事情から子供心にも遠慮しなければとの
思いで、いつからか断った。
それは、ある一言から子供心からも避けなければならない
そんな思いを抱く成り行きからだった。
いま当時を振り返り、私が「墓まで持って行く」と言える
一言だった。

やがて64年の東京オリンピックには母子家庭の我が家にも
室内アンテナの14インチTVがやって来る。
見せてもらう月光仮面や力道山で正座を覚え、隠密剣士や
忍者部隊月光の頃にはコタツ布団に足を伸ばせていられた。

  隠密剣士
秋草新太郎、霧の遁兵衛、風間小太郎の天津敏が懐かしい。

偶には淀川さんの「日曜洋画劇場」
さよならをもう一度、サガンの小説「ブラームスはお好き?」を
映画化したものだが、中年のバーグマンにシビレたりもした。
(オイラは幾つだ?って・・・)
母が楽しみにしていた東芝日曜劇場。
出ていた役者たちの多くは既に亡くなっている。
母も居なくなった。
私の周りから、ひとり・・ひとりと・・・居なくなる・・

19インチのテレビが出るらしい・・・
今では60インチも珍しくないが、当時には我が家が映画館に
と感じるほどに19インチは大きい画面だった。

あの頃から半世紀が過ぎ、見たい映画が我が家で何度も好きな
だけ観れるような時代になった。
DVDが部屋には何百枚と有る・・・
そして数年後には、再び東京にオリンピックの聖火が灯る。

夜が明けて鳥が鳴いている。
望んでなった人生の成り行きでは無かったが、なんとか
なんとか、きょうまで・・・やって来られた。
こんなハズでは無かった、そんな思いも棄て切れてはいないが。

    一曲いかが?
  センチメンタル・ジャーニー



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