僕が病気になり障害者になったのは16歳。
高校1年生だった。

右足大腿切断後のリハビリと抗がん剤治療が長引き学校へも行けなくなった。
17歳のときはほとんど引きこもるだけで過ごした。

社会に出ようにも低学歴で障害者で定期的に病院にいかなければならなかった。
一応の治療期間を終えたとはいえ、18歳になったばかりの若造を雇う会社を探すのは困難を極めた。

免許を手に入れたかった。
クルマを手に入れて移動の自由を手に入れたかった。

そのためには働いて稼ぐしか無いと思った。

もともと健常者だったから障害者になってもまた健常者の世界へ戻るべきだと思った。
健常者のルールのなかで生きるのがあたり前。
それが当然だと思っていた。

当時の価値観は、健常者なら勝ち、障害者なら負け。
健常者のように歩けたら勝ち、車イスに乗ったら負けだと思った。

だから歩いた。意地でも車イスには乗らなかった。
義足はなかなか合わなくて脚が痛んだが、健常者の前では平静を装った。


1980年代後半。
障害者の優先雇用枠があったのかなど知らない。

障害者は困ったら社会福祉協議会に相談すればいい・・・なんていう知恵すら持たない。

10代は障害年金はもらえない。
20歳を過ぎたら所得に応じて年金がもらえるということすら知らない。

仕事を探すのに履歴書が必要ということすら知らない。
さらに言えば、履歴書の書き方がわからない。

そもそも履歴書に書くことがない。
なぜなら高校は辞めてるし資格も持ってないし働いたこともないから。


僕の再起はそんなところからスタートした。
どう振り返っても苦しいことばかりだった。

なんでオレだけがこんな目に遭わなければならないんだと、世の中を妬んでいた。

両親は、僕がひとりで生きていけるのか憂いていた。
そんな事実もずいぶん経ってからから知った。

運良く仕事を見つけたらガムシャラに働いた。
20代から30代はとにかくガムシャラだった。

サラリーマンとしてガムシャラに働いた。
サラリーマン的な成功が何なのかを考えながら出世を目指した。

30代中盤、結果的に何不自由のない暮らしを手に入れた。
当時を知る人が見たら奇跡的な再起だという。


しかし問題があった。
再起できたのは良いが、自分の役割はなんなのかが分からなくなったのだ。

自分はどうして病気になったのか。
どうして障害者になったのか。

何も考えなければそのまま平和に過ぎていくだけだ。
なのにそんな余計なことを考えるようになってしまった。

そして安定したサラリーマン生活にサヨナラして起業し、紆余曲折を経て現在のくらしケアへとつながった。

くらしケアを作ったのは僕のような苦労をしなくても生きていける人を増やしたいから。
そして親が安心できるよう少しでも自立できる障害者を増やしたいからだ。

これが正解かどうかはわからない。
だけど自分を信じて突き進むだけだ。

その先に見つけた理念。
看護の力が人の可能性を拓く。
看護の力が地域を変える。

単なる相談支援をやるならくらしケアを名乗らなくてもいい。 

単なる訪問看護ステーションをやるならくらしケアを名乗らなくてもいい。 

単なる居住支援をやるならくらしケアを名乗らなくてもいい。


いつもそう思っている。

僕たちが取り組んでいるのは病気や障害があっても自分で自分の人生を選択でき、自分らしく生きていける人をひとりでも増やすためのお手伝いである。

それがつまりくらしケアという名の仕事。
極端に言えばくらしケアという名の職業を作るイメージだ。

バカにされてもいい。
本気でそんなふうに考えている。


ブログランキング参加中!
クリックしていただけると励みになります!
▼▼▼▼▼▼

くらしケア代表のブログランクはいま何位?


ファイル 2018-04-04 午後11 26 33
戦国のヒーロー、織田信長で有名な岐阜城をバックにセルフィー。
岐阜城は天下統一の足がかりになった重要な城。
信長の足元にも及ばないが、波乱に満ちた人生という点では共感がある。
障害のある人、生きづらさを抱えている人の支えになれるようこれからも頑張りたい。