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【検証4】平原王墓の被葬者は誰だ?(^_-)-☆

2020-03-24 14:40:55 | 古代史
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この記事は2018-01-04 14:34:24に掲載した内容に手を加えて少しだけ読みやすくしたものです。疑問点などございましたらコメントください(*^▽^*)

卑弥呼の墓は、すでに発掘されている!!
考古学者の森浩一は、福岡県糸島市の平原(ひらばる)古墳の年代が、卑弥呼の年代と重なる可能性を述べている(『日本神話の考古学』朝日新聞社刊)。               
  平原王墓発掘者の原田大六は、この墓を、天照大御神(あまてらすおおみかみ)の墓とする。考古学者の奥野正男氏は、この墓を、卑弥呼の墓とする。吉野ヶ里遺跡の発掘で著名な高島忠平氏も、この墓が、卑弥呼の墓である可能性があるとする。古代では、後の時代でも、都の場所と天皇などの墓が遠く離れていることは、よくあることである。 平原王墓出土の青銅鏡の質と量とは、他の遺跡から、超絶している。 平原王墓からは、直径46.5センチに達する大鏡が五面出土している。      
  わが国では、弥生時代~古墳時代を通じて、約五千面の青銅鏡が出土している。その五千面ほどの鏡において、面径のトップ5は、すべて平原王墓というただ一つの墓がしめるのである。このような遺跡が、今後出現する可能性は、まずないといってよい。 平原王墓=卑弥呼の墓の可能性をさぐることからはじめるべきである。


Wikiによれば、『平原遺跡は弥生時代後期から晩期の5つの墳丘墓を合わせた名称である。 1965(昭和40)年1月、平原遺跡1号墓が偶然発見され、原田大六を中心に学術調査された。昭和63~平成11年度にかけて、1号墓周辺に調査範囲を広げて、最終的に5基の墳丘墓が発見されている。 この遺跡は「平原歴史公園」として、1号墓のみが墳丘墓として復元管理されている。 1号墓からは直径46.5センチメートルの鏡5面を含む鏡40面をはじめとして多数の出土品があり、その全てが「福岡県平原方形周溝墓出土品」の名称で2006年、国宝に指定された(文化庁所有、伊都国歴史博物館保管)。』であり、遺構の配置や副葬品などは邪馬台国大研究ホームページ / 遺跡・旧跡めぐり / 平原遺跡に写真入りで詳しく解説されている。
(「内行花紋八葉鏡」写真は邪馬台国大研究ホームページより

この直径46.5cmの大鏡は、記紀神話での天照大神の岩戸隠れの際に、天照大御神自身を映して、岩戸の外に引き出した八咫鏡(やたのかがみ)と寸法がほぼ一致するものだ(注1)。

そして、瓊瓊杵尊(ニニギ)が天孫降臨に際し、天照大神からこの八咫鏡を授けられ、天照大神自身だと思って祀るようにとの宝鏡奉斎の神勅が下された鏡だ。なので、三種の神器のひとつとして宮中や伊勢神宮などに奉じられているとのことだが、誰もよく見たわけではないようだ。 平原王墓の八咫鏡は天照大神のシンボルなので、原田大六さんは卑弥呼の前の時代の天照大神の墓と考えた。

安本美典さんは卑弥呼が天照大神と考えて平原王墓が卑弥呼の墓と考えているようだが、刮目天は卑弥呼の墓をすでに特定しており、男性神の天照大神は当然アマテラス女神とは別人だから被葬者は卑弥呼ではない。以下に、詳しく説明しよう(^_-)-☆

神話は、一般にはその民族の太古からの伝承であると考えられている。しかし「記紀」等の日本神話は歴史的事実の反映とみられる部分もあると思われるが、編纂者が歴史的事実を知っていたような場合に、何故神話にしたか考えないと騙される。「日本書紀」は天武天皇が編纂を命じたのではあるが、720年の完成前に崩御されてしまった (686年)。

完成当時の権力者藤原不比等は不都合な日本建国の真相を隠し、優秀な皇子たちを排除して即位した皇后鵜野讃良(持統天皇)の皇位継承の正統性・正当性を主張するために皇祖神をアマテラス女神とする遠い昔の神代の話として創作したのだ。

編纂者らは「魏志倭人伝」を引用しているので日本の建国当時のことを理解していたし、神社や各氏族に伝わる様々な伝承を強権で集めて神話を創作し、ほとんど神話に沿った内容の神社伝承を残し、真相を隠すために祭神名まで変えさせたようなのだ。だから、「日本書紀」が完成した後に、その内容に不満を持つ人々もいたはずだ。先に完成したといわれる712年完成とされる古事記の序文は、後代の人間が書いたことが分かっており、歴代天皇の崩御年や神話についても日本書紀と内容が違っている。例えば「日本書紀」にない大国主の神話は真相を示唆したものなのだ。

実は「日本書紀」完成から260年も後になるが、雍熈元年(984年)、東大寺の僧奝然(ちょうねん)が宋の太宗に献上した『王年代紀』がシナの正史「宋史 日本国伝」に記載されている(「日本国」へ、八百年も掛かったのか?(;´Д`))。

その中で、記紀で神代とされた神武天皇以前に、初代天御中主(アメノミナカヌシ)として23代の王が筑紫の日向宮に居たことが明らかにされ、奴国王を指すものだとわかる。古事記でも最初の神は「天御中主神」ということである。「中」はナーガ=蛇を意味し、蛇神(龍蛇神)を祀る種族であるため、西暦57年に後漢光武帝より奴国王に与えられた金印の紐(つまみ)が蛇のデザインなのだ。このことからも初代奴国王だと分かる。さらにヤマト王権の発祥地纏向遺跡のある三輪山の「大物主大神(=大国主命)」も御神体は蛇であり、ヤマトを作ったことが日本書紀に書かれていることからも、「日本は古の倭の奴国」というシナの歴史書「新唐書」・「宋史」に見られる記述に間違いない。 高天原は奴国に王宮を置いた歴代倭国王が支配した福岡平野・筑紫平野一帯であり、大和との地名の一致と位置関係の対応があるので、間違いない(高天原は奴国だ!)。

また、持統天皇の和風諡号が「高天原廣野姫天皇(たかまのはらひろのひめのすめらみこと)」であることからも、「日本書紀」で高天原神話を作り、自ら皇祖神アマテラスとしたことが窺える。さらに、アマテラス女神や神武天皇を祭神とする神社はスサノヲや応神天皇を祭神とする神社と比べると、圧倒的に少ないことも皇祖神アマテラスが創作だということを支持している。 本当の天照大御神は 天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(ニギハヤヒ)のことなのだ。 「王年代記」第19代奴国王天照大神尊ニギハヤヒで、師升らのクーデターを逃れたスサノヲ大王の弟で、吉備を平定しヤマト政権の基礎を作った人物だ。

さて、平原王墓の被葬者のことだが、卑弥呼の墓ならば「魏志倭人伝」に径百余歩とあり、直径150mほどの円形の墓ということであるが(注2)、平原王墓は12×10mの方形墳丘墓だ。元は土を盛り上げてあったようだが、江戸時代に削平して畑にした模様だ。だから、安本さんは2号墳から5号墳まで含む墓域全体が径百余歩だとしているが、東に長辺を持つ40×30m程度の方形状の墓域であり、円形状の墓域としても直径40m程度の円内に収まるから、径百余歩にはとても届かない。 また1号墳の墳丘の中に4.5×3.5mの土壙の中央に長さ約3m、直径約90cmの割竹形木棺(丸太を半分に割り、中をくり抜いて再び合わせた木棺)が置かれて、その内部が顔料で真っ赤に塗られており、夥しい数の玉類の装飾品だけが収められていたので、被葬者が女王であることを示している。

通説では弥生後期から終末期(二世紀から三世紀前半)ころの伊都国の女王の墓としているが、その時代は師升の一族が倭王として伊都国に居城を置いていた。このような豪華な副葬品から台与に匹敵するような女王であるはずだがその記録は残っていない。

また、弥生時代後期の北部九州では箱型石棺がよく見られ、それ以前は甕棺がほとんどであるが、平原王墓は方形周溝墓の中で上記のとおり割竹形木棺の埋納が検出されているのだ。この形式の木棺は、三世紀末から始まる古墳時代の初期に盛行した形式なのだ。通説では二世紀ごろの滋賀県野洲市の市三宅東遺跡に見つかっているとのことで平原王墓を弥生後期ころとする重要な根拠の一つにもなっている。だが、近江の様式がこの頃の糸島で見られるのは説明できない。北部九州の倭国が近江などと対立することは纏向遺跡の外来系土器に九州のものがほとんどないことから分かるのだ。

出土したのは全長3・5m、幅45-65cm、厚さ約4cm、高さ29cmの半円筒形に加工したスギ材。厚さが薄く、蓋と判断した。本体部分が未発見で、実際に人が埋葬された形跡はない。水分の多い水路跡にあったため、保存状態が良く、鑿など工具の削り跡も残っていた。野洲市・市三宅東遺跡 最古の割竹形木棺の蓋?)とあり、平原王墓の木棺の直径は0.9m、長さ3mと比べて長さは同程度だが、幅が少し狭いし、本体部分も見つかっていないので木棺の蓋なのかは確定していないと思う。

市三宅東遺跡で見つかる前までは、最古級は大阪府八尾市久宝寺遺跡1号墳の木棺だった。大和を中心に大型前方後円墳が続々と造営されつつある時期にあたる古墳時代初頭が築造期で(270~280年)、墳丘の形状も平原王墓と同じ方形周溝墓なのだから、平原王墓はこの時代のものだろう。

また、野洲川下流付近は玉つくりで知られており、平原王墓で発見された玉類を作る工房跡から工具類が発見されている(注3)。 「野洲川下流域は、原石を産出しないが、一大玉製品の産地でした。多くの遺跡で、玉つくりの痕跡を残しており、多くの人が玉つくりに従事していたようです。 原石を入手する強い政治力と経済力を持ち、玉つくりに必要な道具を作る技術を保有していました。多くの弥生遺跡の中でもユニークな存在だったと思います。」(守山弥生遺跡研究会)

つまり平原王墓の被葬者は近江・越の女王だった神功皇后=台与ではないだろうか?【検証1】佐賀に近江の土器が?(^O^)/) 宗像三女神のイチキシマヒメが卑弥呼、残りの二人(タゴリヒメとタギツヒメ)は大国主と結婚したという伝承があるので、卑弥呼の宗女台与のことだと考えている(注4)。

実は平原王墓の近く、糸島市三雲に御祭神として磐長姫(イワナガヒメ)・木之花開耶姫(コノハナサクヤヒメ)という二柱の姉妹女神を祀る細石神社(さざれいしじんじゃ)がある。『社殿の背面にある「三雲南小路遺跡(文政5年(1822年)発見)の拝殿」であろうと地元民は云っている。』Wiki「細石神社」より)天孫降臨神話で瓊瓊杵尊が絶世の美女コノハナサクヤヒメを娶る際、父親の大山祇神(オオヤマツミ)が、姉で絶世の醜女?のイワナガヒメをセットにしたが、ニニギは姉を突き返したので、彼女は自分を娶っておけば妹の生む御子は不死だったのに、御子は短命となるだろうという呪いの言葉をかけたという伝説だ。卑弥呼がヤマト王権を呪ったイワナガヒメで、台与がコノハナサクヤヒメに、そしてニニギがスサノヲの直系の大国主命に対応するのではないだろうか。日向三代の神話の天孫降臨の場所は宮崎県高千穂辺りではなく、伊都国と奴国の間の高祖山とその南のクシフル山、さらにその南の日向峠付近であろう。

平原王墓の被葬者の股に日向峠から朝日が差すように安置しているが、原田大六さんは「実在した神話」(学生社)で以下のように述べている(p.145)。 『被葬者は生前においては、女の司祭者(シャーマン)であり、女の支配者(女王)であったことになる。このシャーマンである女王は、他界して神となった。いうまでもなく女神である。(途中省略)太陽も古代では神であり、男神と考えられた。ギリシャでは「ゼウス」であり、中国大陸では「東王父」である。この男神の霊と女神の霊の結合が、平原弥生古墳の神話の構成であった。女神は「太陽の子」をみごもった。だからその女神の子孫はすべて「太陽の子」として生まれてきたと神話は語るのである。このようにして、日本における帝王日子観は生まれたといってよい。』

もしもそうであるなら、卑弥呼に子があったことは記されていないから女神アマテラスでもなく、平原王墓の被葬者は卑弥呼ではないことになる。だが、宗女台与が神功皇后のモデルとなった人物なので、その御子は応神天皇であり、父親である太陽神は住吉大神(住吉大社の伝承)、つまりスサノヲの子孫である大国主命=三輪山の大物主大神ということになりすべての謎が解ける。

卑弥呼の死後に倭国を引き継いだ台与(神功皇后)と大国主狗古智卑狗(武内宿禰のモデル)が、ヤマト勢に追討されて、大国主は高良山に立て籠もって奮戦し、その間に台与と生まれたばかりの二人の間の子供(ホンダワケ=応神天皇)が筑後川を下り、有明海から南下して野間岬から大隅正八幡宮付近に逃亡したのではないかという関祐二さんの推理を当初考えた。だが今回の検証から、逃亡したのは母親神功皇后(台与)と別れたホンダワケだけで、女王台与も実は伊都国で奮戦し戦死して平原王墓に葬られたということになる。

平原王墓の木棺の周りに40面の鏡がほとんど破砕されて置かれていた。そして、被葬者の頭部の木棺の上に素環頭大刀が置かれていた。これらは死者の怨霊を封じる目的だろう。しかも、女性の被葬者の頭部に鉄刀を置いているということは女武者として大活躍した神功皇后の話と重なり、実際に台与女王はヤマト勢と戦闘して亡くなった事実を表しているようだ。

そして当時の人々は、ヤマト王権に対して恨みを持って他界した高貴な人物の祟りを最も恐れた。天変地異はそういう人物の祟りだと信じられていた。だから、後の文献「続日本後記」の承和十年(843年)4月の条と「日本三代実録」元慶元年(877年)7月の条にはヤマト建国の英雄で祟るはずのない神功皇后が祟ったので、山稜に使者が遣わされ篤く祀られたという記録が書かれている。

やはり、平原王墓の被葬者は卑弥呼ではなく宗女台与(神功皇后)だろう!(^_-)-☆

女王台与が何時亡くなったのかははっきりしないが、台与が晋に朝貢した266年以後で呉が滅んだ280年までの間だろう。崇神天皇は、ヤマト王権の後ろ盾が無くなり晋に滅ぼされるのを怖れ、南九州で逼塞していた親晋倭王台与の子ホンダワケをヤマトに呼び寄せ応神天皇として即位させたと考えている。 「日本書紀」崇神天皇五年に疫病がはやり、民が半数以上死んで世の中の乱れたのは大物主大神が祟ったとして大神のお告げにより、子のオオタタネコを呼んで祀らせたら治まったとあり、オオタタネコが応神天皇のことだろう。

また、彼女を埋葬したのはヤマト王権サイドだということも前述のとおり、怨霊封じのための副葬品から分かる。 神功皇后の陵墓に治定されている五社神古墳(ごさしこふん)は、奈良市山陵町(みささぎちょう)にある墳丘長267m、高さ27m(後円部)の前方後円墳であり、佐紀盾列古墳群を構成する古墳の1つであるが、実際の被葬者は分かっていない。4世紀の築造とされている。神功皇后の陵墓に治定される以前は垂仁天皇の皇后日葉酢媛命(ひばすひめのみこと、生年不詳 - 垂仁天皇32年7月6日)とWikiにあるが、どういう根拠でそうなっているのか不明だ。

邪馬台国大和説で箸墓古墳が卑弥呼の墓という説もあるが、大和岩雄さんは箸墓古墳は女王台与(ヤマトトトヒモモソヒメ)のものであるという推論をしている(「箸墓は卑弥呼の墓か」大和書房、2004,p.75)。刮目天は応神天皇が即位した後に母台与を箸墓に改葬したと考えている。

また桜井市外山(トビ)にある築造年代が3世紀末から4世紀初頭の墳丘長207m、高さ23mの前方後円墳である桜井茶臼山古墳(さくらいちゃうすやまこふん)は、平原王墓の後の時代の築造だが、同様な副葬品が収められただけでなく、破砕された銅鏡が81面分あり、古墳の後円部の空濠の外に、宗像神社があるので、最初、神功皇后を大和盆地で再葬したのかもしれないと考えたが、箸墓古墳が台与の墓と分かったので、応神天皇が本当の父である大国主狗古智卑狗を茶臼山古墳で改葬したのだろう。「トビ=蛇」を表す地名なのだ。隣に造られたメスリ山古墳には遺骸は葬られず大量の武器が埋納されている模様だ。大国主は奮戦して戦死はしたが、霊を慰めるために軍神と見なしたのではないだろうか。これが後に毘沙門天と習合することになったと考えられる(本当は怖い七福神の謎(;一_一))。


【参考記事】
古代史の謎を推理する(^_-)-☆



(注1)咫(あた)は円周の単位ともされ、約0.8尺である。八咫鏡は直径2尺(46cm 前後)の円鏡を意味するとWiki「八咫鏡」にある。また、この平原王墓(平原1号墓)の副葬品の青銅鏡計40面の内訳は、
・直径46.5cmの日本最大の大鏡内行花文八葉鏡・・・・・・・5面
・他の内行花文鏡(「大宜子孫」「□宜子孫」銘)   ・・・・・・・2面
・方格規矩四神鏡                ・・・・・32面
・虺竜文(きりゅうもん)鏡            ・・・・・・・1面
であり、方格規矩四神鏡が庄内様式土器の邪馬台国時代のものであると安本美典さんが説明している。また、考古学により定めた年代には前後60年の幅があるという森浩一さんの説を紹介している。

(注2)Wiki「卑弥呼/卑弥呼の墓」によれば一歩 (尺貫法)の単位については、周代では約1.35m、秦・漢代では約1.38m、魏代では約1.44mと言われている。左足を出してから右足の着地する2歩分の距離

(注3)北九州市・城野遺跡 九州最大級の「方形周溝墓」が発掘 11/21現地説明会 2009-11-17 18:56:29 城野遺跡は玉作り工房もすごい!-3/25講演会“輝く弥生の玉物語”開催- 2017-03-30 23:58:13 この玉造り工房の遺跡は近江から台与女王が誘致したものではないだろうか?


(注4)刮目天が卑弥呼の宮殿跡と考えている安心院町三柱台地の三女神社の石鳥居の扁額のひとつに「二女神社」と書かれていた不思議な謎が解き明かされた。


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通説と違うので、初めての方は「古代史を推理する」をご覧ください。
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