『孟子』 仁義と利益
論語の冒頭は、
「学びて時にこれを習う、またよろこばしからずや。朋(とも)あり、遠方より来る、また楽しからずや」
と、実に淡々と始まる。
これに比べると、『孟子』の冒頭は劇的である。
それは、梁の恵王という君主との謁見から始まる。
恵王は、孟子に尋ねる。
「老先生は、遠方より我が国においでくだされた。きっと我が国の利益となることを教えてくださるのでしょう」
ごく真っ当な問いかけである。
ところが、孟子は、こう応えるのである。
「王よ、なぜ利益のことを問うのですか。大切なことは、ただ仁義だけです」、と。
ドラマの山場のような風景である。
クライアントが私に望むことは、梁の恵王と同じである。
「何か利益につながること、何か役に立つことを教えてくれ」ということである。
ここで、孟子のように、
「大事なことは単に儲けるということではなく、正しいマネジメントをすることでしょう」
と言いたいが、言えば、仕事はこなくなるだろう。
つまり、私も仁義より利益を大事にしているということである。
こう考えると少し悲しくなる。
ただ、一国の政治と企業経営は、全く違うものであるという考え方もある。
つまり、企業経営においては、利潤の追求だけを考えれば良いというのである。
「企業経営者の使命は株主利益の最大化であり、それ以外の社会的責任を引き受ける傾向が強まることほど、自由社会にとって危険なことはない。これは、自由社会の土台を根底から揺るがす現象であり、社会的責任は自由を破壊するものである。・・・一企業の一介の経営者に、何が社会の利益になるのかを決められるのだろうか。また、社会の利益に貢献するためなら、会社や株主はどの程度の負担を引き受けるべきだと言えるのだろうか」
『資本主義と自由』(ミルトン・フリードマン著、日経BPクラシックスP249)
まさに、自由主義の考え方である。
フリードマンによれば、
「企業が負うべき社会的責任は、公正かつ自由でオープンな競争を行うというルールを守り、資源を有効活用して利潤追求のための事業活動に専念する」(前掲書P248)
ということである。
私は、基本的には自由主義の理念を信じているので、フリードマンにこういう風に言われると、なるほど、それもそうだと、思ってしまう。
ただ、昨今、多くの企業が社会的責任ということを声高に叫んでいるが、それは、社会的責任が企業の使命であると考えてのことではないだろう。
社会的責任を果たしている企業というイメージを作り出すことによって、より利潤の追求をしていると理解した方が、正しいのではないだろうか。
こう考えると、社会的責任を果たすかどうかということは、それほど大きな問題ではない。
各企業が、それぞれの判断で、行うか行わないかを決めれば良いだけの話である。
問題は、企業経営の判断基準の中に、仁義や正義といったことが、織り込まれているかどうかではないだろうか。
現実の、社会に与える企業の影響力を考えた場合、企業がどういった存在であるのかは、大きな意味を持つからである。
フリードマンは、利潤を追求するに当たって、「公正かつ自由でオープンな競争」と述べている。
「自由でオープンな競争」の意味は、明白である。政府が口出しするなということである。
では、「公正」とは何をさしているのだろう。
言葉のニュアンスからして、仁義や正義に近しい何かではあろう。
「君子、財を愛す。これを取るに道あり」という言葉があるが、この道のようなものであろうか。
話を最初に戻すと、孟子の生きた時代は、今よりほぼ2500年前、中国の戦国時代である。
農業技術は進歩し、商工業は発達し、多くの都市が栄えた時代である。
斉の都である臨淄は、その人口50万以上という、当時、世界最大の都市であった。
つまりは、現代と良く似た時代であった。
その、各人、各国が利益を争い、それが当然とされた時に、孟子は「ただ仁義あるのみ」と述べたのである。
この孟子の言葉の現代的意義は、自分自身を振り返る意味でも、改めて問い直す必要があると、考えている。
孟子見梁惠王。王曰、叟、不遠千里而來。亦將有以利吾國乎。孟子對曰、王何必曰利。亦有仁義而已矣。