カズオ・イシグロの世界②個と個の外 | 友野雅志の『 Tomoの文藝エッセイ』

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詩・小説・文藝批評についてのエッセイをのせます。読書と批評を書く他、ギター、俳句、料理、絵、写真が趣味です。

  前回、『遠い山なみの光』『浮世の画家』から感じるところを書いた。作者カズオ・イシグロは戦後にこだわり、そこに生活する人びとのかなしみ、人生を振り返る時のズレがおこること、個人の思いと全く違うところで社会は善悪を判断しているということをこまかく描いていたのではないか。それがわたしが感じたことである。

  日本をその書く対象から外し、イギリスを書いたのが『日の名残り』である。『遠い山なみの光』で王立文学賞(日本では芥川賞だろうか)、『浮世の画家』でウィットブレッド文学賞(日本では野間文芸賞だろうか)、そして『日の名残り』でブッカー賞(三島由紀夫賞かな⁈)、を取った。

『日の名残り』の主人公スティーブンスはイギリス貴族ダーリントンの執事としてほとんどの人生を過ごし、最後にはイギリス経済力とナチスドイツへの融和政策を主張していたダーリントンの力が落ちていき、第二次大戦後にはアメリカ人のファラディが屋敷を買い取り、それと同時にスティーブンスはファラディの執事となる、多くの使用人が解雇されざるを得ない中で。それが彼が過ごした戦争である。

  カズオ・イシグロはインタヴューでこう語っている。ーーーー『日の名残り』は、執事であることを超える視点を持ちようがない執事についての話です。我々はこれと変わらない生き方をしていると思います。我々は大きな視点を持って、常に反乱し、現状から脱出する勇気を持った状態で生きていません。私の世界観は、人はたとえ苦痛であったり、悲惨であったり、あるいは自由でなくても、小さな狭い運命の中に生まれてきて、それを受け入れるというものです。みんな奮闘し、頑張り、夢や希望をこの小さくて狭いところに、絞り込もうとするのです。そういうことが、システムを破壊して反乱する人よりも、私の興味をずっとそそってきました。ーーーー簡単にいえば、自分が生きる世界や社会のルールをどうであろうと受け入れるひとのことを書いた。なぜなら、私たちはそのように自分の人生を決めて生きるのだから、ということである。

  『日の名残り』の主人公、スティーブンスはイギリスの貴族ダーリントンの執事として20名ほどの召使いの長として生きていた。彼は、ダーリントンがアメリカ、ドイツのトップと食事会や秘密の会議の場として屋敷を提供し、そこで茶や酒を運び、呼ばれたらいつでも飛んで行けるようにドアの外に立っていることに誇りを持っている。なにしろ、世界の政治の核心の場のそばに立ちあっているのだから。そこにはナチスドイツの人間も含まれる、ダーリントンは、今で言えば融和政策を支持していたのだから。第一次大戦で崩壊したドイツにあまり負担をかけるべきではないと。

その場にいることが彼の誇りだった。その誇りの大きさのために、女中頭ミス・ケントンへの彼の思いを彼は自覚できない。彼女が泣く時、虚しく感じている時、スティーブンスは私たちはそういうことのはるか重要なことを目の前にしているのですから、それの前に大切なものはないと振る舞ってしまう。そして、彼はそれを信じている。

しかし、彼女が結婚して田舎に引っ越したあと、時々屋敷での生活を思い出し、家出してしまうという彼女からの手紙に、彼は彼女を訪ねる決心をする。

老いたミス・ケントンーー彼女は結婚してすでにミセス・ベンなのだが、主人公は小説の最初から最後まで昔呼んでいたミス・ケントンと呼ぶ、最後に実際に会う場面まではーーミス・ベンは、こう語る。「ーーーーとてもみじめになって、私の人生はなんて大きな間違いだったかしらと、そんなことを考えたりもします。そして、もしかしたら実現していたかもしれない別の人生を、よりよい人生をーーたとえば、ミスター・スティーブンス、あなたといっしょの人生をーー考えたりするのですわ。・・・・・結局、時計をあともどりさせることはできませんものね。ーーーー」

スティーブンスはアメリカ人ファラディに喜ばれるジョークを話せるようにもっと一生懸命になろうと心に決める。ファラデイに良い執事として評価されたいのである。ーーしかし、スティーブンスにとって誇りであった輝かしい日々は既に終わろうとしている。そして作品は終わる。

スティーブンスの世界は狭い貴族の屋敷の中だけである。そこに外の世界は、主人のダーリントンを介して入ってくるものである。ミス・ケントンは若い時に、他の世界があることをなんとかスティーブンスに知って欲しかった、しかし、スティーブンスはそれを拒否した。

第二次大戦後、スティーブンスはミス・ケントンに外の世界への出口を感じる、しかし、それは彼が過去に閉じたものだった。

わたしたちの外の世界との道は開かれているのだろうか。そもそも、個人がこれが外の世界だと確信する時、その外の世界は本当に外の世界だろうか。これは、作者カズオ・イシグロがいつも作品で疑問を投げかけるところである。

そういう意味では、『遠い山なみの光』と『浮世の画家』から続いて、『日の名残り』は、ひとが自分の人生を受けとめる時、どのように狭く、あるいはどのようにかたくなに見えようとも、ひとつの必然性に従って肯定も否定もするしかないと語っているように思う。

その時の人間の人生の不条理なところや、まわりからは非人間的な面を書いたのが、この作品に続く『充たされざる者』そして『わたしたちが孤児だったころ』になる。

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