『コーラン』 | 友野雅志の『TomoBookWorld』

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『コーラン』。コーランは仏典や聖書と違って、もともとアラビア語で読誦されるもので、翻訳も禁じられていた。イスラムでは、アラビア語以外のコーランはない。アラビア語で読み上げられるのがコーランで、他の言語は、翻訳であっても解説書であるという考えだった。


コーランは、旧約聖書のユダヤ教、旧約・新約聖書のキリスト教と同じセム族に生まれた。7世紀、メッカにはユダヤ教徒、キリスト教徒がおり、アラビアの人々はいろいろな神を祭っていた。その中で、一歩抜きんでて敬意を集めていたのがアッラーである...


ムハンマドは、世界の創造主から言葉を頂いているユダヤ人の安堵感や、命と引き換えにするキリスト教徒の信仰を見て育った。そして、洞窟に籠り修行するキリスト教徒を見て、同じように修行した時期がある。多分、旧新約聖書も聴く機会があったろう。


まず、コーランを読む前に旧新約聖書を一読しておくことをおすすめする。ムスリムは、同じセム族の祖先のユダヤ教、キリスト教を同じアッラーからの預言だと受け入れているので、いたるところに旧約聖書と新約聖書の物語が出てくる。あるいは、メッカの頃の啓示と、イスラムの生活習慣に関すること以外は、旧新約聖書の物語を何度も引用している。


メッカ時代は、命を狙われることもあり、またムスリム仲間も少なかったので、その時代の啓示は鬼気迫るもがあり、アッラーの呼び掛けに応じよ、終末が来るぞ、と厳しいものである。約60人でメディナへ移り、戦いに勝利していくと、イスラム社会の在り方や礼拝について語っている。生活習慣については、「もうひとり嫁をもらってよいか」「断食の夜も夫婦の交わりは良い」等々微笑むものから、少ない人数で始まったムスリムが生きて行く術、戦いの方法まで書かれている。サラセン帝国の始まりである。


最初のムスリムになったのは、つまりムハンマドが神の使いの言葉を聞いたと信じたのは、ムハンマドの妻である。最初、私はコーランは神の言葉か?という疑問を持ちながら読んだ。


回りの部族との同盟のためにムハンマドは、4名までというコーランのルールを超えて9人と結婚する。しかも、その中の一人は、義理の息子の嫁に一目ぼれしたムハンマドのために、義理の息子が離婚して譲ったとある。そして、いたるところに、ムハンマドも結局ただの使徒、他の人間と同じであると書いてある。さて、コーランは神の言葉か? 私はこれらのムハンマドの人としての生きている様子を読んで、また、ムハンマドは自分やアラブの民族をすぐれているとも選ばれたとも思っていないことが明確に理解でき、神の言葉と受け取っても良いだろうと思った。特にメッカ啓示はそうである。


メディナ啓示の頃は、あまりに瑣末な事や現実的な事が多く、ムハンマド自身が、神ならどうするだろうと考えつつ話したのではないだろうかと想像する。


いづれにしても、選ばれたすぐれた宗教者であり、政治家である。彼が死んだあと、借金を返すと、剣と少しの土地しか残らなかったとある。


多分ムハンマドは神憑り状態だったのだろう。そして、内容を考える時に、神ならこう言うだろうという言葉を彼はそのまま伝えた。それがコーランだろうと思う。もしかすると、直接神の使いから聴いたのかもしれない、それを否定する要素は全くない。キリスト教徒は聖書を、ユダヤ教徒は旧約聖書を、ムスリムは旧新約聖書とコーランを、もっと身近なものになるほどに読むことは良い事だろうと思う。

2012年に書いたもので、手を入れようと思ったが、全く手を加えないことにした。

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