我(われ)と来て遊べや親のない雀 小林一茶(こばやしいつさ)
『古典詞華集一』 山本健吉 小学館より
<おらが春』に「六歳弥太郎」として出ていて、次のような前文を添えている「親のない子はどこでも知れる、爪を咥えて門に立つ子と子どもらに唄はるるも心細く、大かたの人交りもせずして、うらの畠に木萱など積みたる片陰に跼(またが)りて、長の日をくらしぬ。我が身ながら哀れ也けり」
片親がなく、子供の遊びの仲間にも加えてもらえないで、しょんぼりと爪を咥えて門に立っている自分と一緒に遊べ、親のいない独りぼっちの雀よ。(中略)雀の子に対する哀憐よりも、自分の不幸を誇張し、協調して、ひとの同情をかち取ろうとする意識が見える。だが、片親で育った心の傷痕が、彼にとって深いもので、その生涯に如何に大きな影を落としているかということも、この句から想像できる。>
何もそこまで言わなくてもいいだろうと思える鑑賞だが、大方はその通りだろう。
「子供の遊びの仲間にも加えてもらえない」訳ではなく、一人でいる方が気が楽なのだ。遊んでいる内に、母親の話題が出たり、母親が迎えにやって来る。母親がいなくて悲しいだろうと思うのは、母親のいる人の感覚だ。
母親のいない子は母親というものの存在がどういうものだか分からない。それは、母親の愛情を知らないということでもあるのだが。
友達の母親は、この子は母親がいなくて可哀そうねみたいな顔をする。そういう顔で見られるのが嫌で、独りで遊ぶことが多くなる。そんな感じだ。