SWA

知られざる南部連盟

カテゴリー: NWA

1951年9月に行われた年次総会でNWAに加盟したジム・クロケット・シニア(キャロライナ地区)は、翌1952年、米国南部でも共通の王者を認定することを目的とするNWAの下部組織を結成することを提案した。

1953年5月2日、南北キャロライナ、バージニア、ウェストバージニアジョージアフロリダアラバマ、ミシシッピ、テネシーといった南東部各地からプロモーター達がジョージア州アトランタに集結し、クロケットを初代会長としてサザン・レスリング・アライアンス(SWA)を結成した。同年夏を予定に、ヘビー級、ジュニアヘビー級、タッグの各部門で南部王座決定トーナメントが開催されることが発表された。

実際には、ヘビー級はジョージア版、ジュニアヘビー級はテネシー版が各地で認定されるようになった。タッグは、9月1日、テネシー州ナッシュビルでのトーナメント決勝で、元ボクシング世界ヘビー級王者ジャック・デンプシーが特別レフリーを務める中、アルとジョンのスミス兄弟がロイとハーブのウェルチ兄弟を破り、SWAから認定された。以後同王座は、キャロライナ地区を拠点に南東部各地で防衛戦が行われた。

だが、1956~57年にかけてNWA内部で起こった問題が影響したのか、1950年代の終わり頃になると、共通王者という概念が少しずつ薄れていった。それぞれの地区が再び独自でタッグ王座を認定し、ジュニアヘビー級王座もテネシーやアラバマ以外では防衛されなくなった。

それでも組織としてのSWAは存在し続け、1960年から少なくとも1967年まではポール・ジョーンズ(ジョージア)が会長を務め、年次総会も行っていたようだ。

1960年代に入ると、ヘビー級はフロリダ版が各地で認定されるようになった。ジョージア版は自然消滅に近い形になり、同地区の主要選手権としては新たに州王座が認定された。

1960年代後半になってもSWAの名前を最も頻繁に使っていたのは、カウボーイ・ラッテロール(フロリダ)だった。自ら認定する南部ヘビー級王者が他地区でも認定されていたということもあるが、テレビマッチ収録用のスタジオの壁にもSWAの名が掲げられていた。

1970年には、エディ・グラハムがラッテロールからフロリダ地区の興行権を受け継ぎ、同じ頃、テレビスタジオの看板もNWAのロゴに変わり、SWAに終止符が打たれる。

その後テネシー地区認定の南部ジュニアヘビー級王座は、1974年にヘビー級王座に変わり、1978年以降は同地区認定南部タッグ王座共々、AWA南部王座として1987年まで認定された。

その他各地区の南部タッグ王座は1960年代が終わるころには消滅、キャロライナ地区版は大西洋岸王座メキシコ湾岸版南部王座湾岸王座、その他はジョージア州王座およびフロリダ州王座にそれぞれ置き換えられた。

最後までSWAにこだわり続けたラッテロールが認定していた南部ヘビー級王座は、1987年春、フロリダ地区がジム・クロケット・ジュニアに買収されるまで、同地区の看板王座として認定された


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