走って転んで立ち上がって

寂しさの紛らわし

東南アジアを初めて周遊してみた話

 

 初めて1人で東南アジアを周遊した時の話です。

東南アジアで働こうと思いつつも、行ったことがなかったので自分の目で確かめてみることに。

おっかなびっくりの旅でしたが、無事帰ってくることが出来ました。

 

 

2016/7/28から8日ほどかけて周遊することにした。

 

毎夜毎夜パソコンで調べまくって、1人でしこしこと計画を練っていた。

やってみて分かったのは意外に簡単だということ。

航空券なんてクレジットカードさえあれば、クリックするだけで買えてしまう。

 

ホテルのサイトだってこれだけ一覧になっていて評判もわかって写真もたくさん載ってるしで

情報が溢れかえりそうだ。

 

行く前に友人たちにはギョッとされた。

1人で東南アジアって大丈夫??危険じゃない??

耳にタコができるほど言われた。

 

友人たちにこれだけ聞かれるくらいだから、

親なんかに言ったら絶対許されないと思い黙っていくことにした。

 

さすがに何かあったら怖いので、海外保険に入った。

Wifiルーターも借りたし、インターネット環境は万全だ。

 

しかし、親族に何も言わないのも悪いので、叔父と叔母に東南アジア行きを告げた。

案の定めちゃくちゃ心配されたけど、全部の準備が整った後だったので行くしかない。

 

今回のルートはまず、台湾経由でホーチミン、2日ほど滞在したら次にハノイへ(1泊のみ)さらにそこからバンコク(2泊)に行き、

インドネシアのジャカルタで3日ほど過ごす。

そして7回ほど航空便に乗る予定だ。

全部の予算は15万円ほど。滞在をホテルに設定してしまったので高くついた。

腰が痛くなりそうなスケジュールである。

当時エアアジアが東南アジア便を大売り出ししていた期間で、とても安く周遊ができた。

 

スーツケースも持っていなかったので、レンタルした。

計画を立ててから、海外でも使えるクレジットカードを発行するために銀行口座を開設したり、保険に入ったり

空いている時はとにかく仕事を入れた。

目標に向かって行動しているときが一番楽しかった。

 

ついに当日がやってきた。

私は同居している祖父母に大阪に行くとのたまって家を飛び出した。

今回トランジットである台湾の桃園国際空港は大学の卒業旅行で行ったことがある。

一度行ったことがある、という経験はものすごく頼りになる。

3時間ほどのフライトを終えて、飛行機を降りたもののトランジットの仕方がよくわからない。

イミグレーションって入国だよな…台湾には入国?するつもりはないんだけどなぁと通路を右往左往。

何とか「Transfer」の標識を見つけて安心。

桃園空港は広くて、綺麗で休憩スペースがたくさんある。もちろん電源タップもそこかしこにあって非常に快適だ。

フードコートで700円くらいの定食を食べた。

さすが台湾。おいしい。お決まりのミルクティーも飲めて大満足だ。

トランジットにはとても過ごしやすい空港だ。今まで行った空港の中でも料理が抜群においしくリーズナブルだ。

私は桃園空港のトランジットだったら喜んで乗換する。それくらい好きな空港だ。

 

トランジットを終えて、ベトナムのホーチミン、タンソンニャット国際空港に着いたのは25:00をまわっていた。

到着口を出た瞬間、熱気が体を包んだ。そして深夜にも関わらず大勢の人たちが到着口付近に群がっている。

情報の通り、正規タクシー乗り場へ行こうとすると「タクシー!」とおじさんたちに次々と声をかけられる。

これはいわゆる白タクというぼったくりタクシーの声掛けだ。

乗ってしまったが最後、高額な運賃を支払わされる羽目になる。

辺りは暗いのに人だけが活気づいているのが怖かった。

心もとない顔をしていたから、こんなに声をかけられるのだろう。

案の定翌朝も道を歩いている時バイクタクシーによく声をかけられる羽目になった。

弱弱しいオーラを出していたんだろうな…。

 

正規タクシーになんとか乗り込むも、行き先が全く通じない。

本当にホテルへ到着できるのか不安でたまらなかった。

私は深夜着の航空便を指定してしまったことを心底後悔した。

 

運転手は英語はあんまり理解できないが、悪い人ではなさそうだった。

私は運賃メーターに終始注目し、疑心暗鬼になっていた。

空港駐車代として10,000VNDほど取られるらしいのだが、

当時はその意味が理解できず、運転手が一生懸命伝えようとしているのに怪訝な顔をしてしまった。

ベトナムの初タクシーは不安だらけで終わった。

運転手が途中道に迷ってぐるぐるとさまよったが、ホテルの看板を見つけることが出来た。

チェックインできたのは夜中の2時だった。

受付に当直のおじさんが一人いた。

おじさんは荷物を持って優しく迎えてくれた。

エレベーターの中では英語でひったくりとバイクタクシーには注意するようにと教えてくれた。

部屋は何とも古くて薄暗い感じ。寂れた昭和臭が漂う。

この日は疲れて即寝てしまった。

 

翌日。けたたましいクラクションと交通音で目が覚める。

うるさい。耳障りで仕方がない。

憂鬱な目覚めだったが、気を取り直して朝食に行った。

ごくごく普通の洋食バイキングだった。

宿泊客に日本人は私だけで欧米人や中東系?の人が多かった。

 

朝食場所が屋上にあったので、上からホーチミンの街並みを見渡した。

印象は所せましと建物が並んでおり、周辺はあまり高い建物がなかった。

何となくのイメージだけど、昭和40年代?生まれてないけど。

何だかちょっと古臭いと感じた。

よくよく見てみると洗濯物を干していたり、扉がなく室内が丸見えだったりした。

 

部屋に戻り、シャワーを浴びて外に出るとけたたましいクラクションとともに大量のバイクが走っていた。

歩くと歩道はボコボコ、バイクの大量駐車により行く手が阻まれた。

歩き回りたい自分としては歩道を歩くだけでイライラし、街中の騒音に耐え切れず耳にイヤホンを突っ込んだ。

 

日本との環境の違いに衝撃を覚え、ホテル周辺を散歩してすぐに部屋に戻ってしまった。

とてもじゃないが耐え切れない。

今でこそいうが、正直な感想は「ここでは働けない、やっぱり3年くらい日本で働こう。」だった。

初めての東南アジア周遊で不安感も混ざり、異様に心配していたのかもしれない。

1日目にしてあと1週間ほどを乗り切れるか不安になった。

 

夜は転職エージェントの紹介で3ヵ月ほど前にホーチミンで就職したという人と夕食を食べた。

タクシーで移動し、ベトナムの食堂で夕食を食べた。

彼は「ベトナムは住みやすくて、面白い。あんまり英語は必要だとは思わない。」と話していた。

まだ来越して3ヵ月ほどだが楽しいという。彼のキラキラした様子から、東南アジアで働けないこともないのかなと希望が持てた。

後に彼が半年ほどで帰国することになる、ということは全然予想していなかったが。

 

翌日は元々予定にあった面接をした。

コーヒー店での面接だったが、正直相手方に良い印象を持てなかった。

際立って悪い何が悪いわけではなかったし、その人の考え方や経験の話は面白かった。

これまで採用した人の話で、ヤモリが嫌すぎて1ヵ月で帰国した人の話を聞いた。

その経験からか、ヤモリは大丈夫かと執拗に聞かれた。

私はヤモリは全然平気だ。むしろ字の如く家の守り神くらいに思っている。

害虫を食べてくれるし、見た目もキモいと思わない。

今でも部屋に一匹住み着いているらしく、たまに見かける。

見かけたと思ったら、すごい勢いで隠れてしまうのでまぁ好きにやってくれと言った感じだ。

 

このヤモリが嫌すぎて帰国というのは私にとっては頓珍漢な理由に思えた。

ヤモリで耐え切れないというのなら、最初からその人は海外暮らしに向いていなかったんじゃないだろうか。

 

気が向いたら連絡してくださいという言葉で面接は終わった。

 

ホーチミンは3日目で立ち、ハノイへ向かった。

ハノイの印象はホーチミンと違ってのどかな印象。

そして、街全体が広い。

コンパクトシティであったホーチミンと比べて、街のエリア一つ一つが広く感じた。

ノイバイ空港からハノイ市街までは車で1時間半ほどかかった。

 

8月のハノイは非常に暑く高い湿度も相まって、少し歩くだけで倒れそうだった。

今まで感じたことのない灼熱地獄だった。有名な湖を一周しただけでギブアップした。

こんなに気候が厳しくても私はこの街が好きだと思った。

これは完全に直感で、ホーチミンに比べて圧倒的にハノイに住みたいと思った。

また宿泊したゲストハウスのスタッフの感じも良く、非常に過ごしやすかったので好印象だった。

宿に着いたところで突然面接希望の連絡が届いた。

さすがに今日は無理ということで、翌日に面接することになった。

 

翌日面接を終えて、ゲストハウスに戻る際タクシーが道を間違えて全く違う場所で降りてしまった。

そのため、ゲストハウスまでスーツで20分ほど歩くはめになった。

スーツは蒸し暑いわ、道がボコボコしていてヒールは歩きにくいわで倒れそうだった。

全身真っ黒なスーツを着ていたので、目立ってジロジロ見られた。

 

ハノイは残念ながら1泊しか日程を取っていなかった。

この場所でもう2泊ぐらい日程を組めばよかったと後悔した。

スーツで体力消耗した6時間後、私はバンコクに飛び立った。

 

バンコクについては日本と変わらないくらいの発展を感じた。

際立って気になるものもなく、可もなく不可もなくという印象。

住みやすそうだけど、これだったら東南アジアにいる意味ないなと思った。

バンコクでは転職エージェントへ何件か挨拶周りをした後にツアーに参加してお寺を観光した。

途中良い感じのホテルでマッサージしたら見習いのド素人を呼ばれ、ひたすら痛いマッサージだけで、60ドルくらい取られた。

私も直前に連絡してしまったのが悪かったが、それでもクオリティ低すぎて怒りが湧いた。

 

次にタイをおさらばしてインドネシアへ向かった。

ジャカルタからタクシーでホテルへ向かう。

ちょっとスピード出しすぎで怖い。

 

車窓は車と道路ばかり。全然人が歩いていない。

というか、車道が広すぎてほとんど歩道がない。

道を横切るにも大きな歩道橋を渡らなければならず、面倒くさい。

街にはいくつものショッピングモールが立ち並び、ショッピングモールに入るにも車で横付けしなければならなかった。

また、車ごと入口前まで入場することを前提に造られているためか、歩行者用の入口が全然見つからない。

しかもショッピングモールの入口付近には警備員がウロウロしていて、金属探知機を持ち荷物検査を行なっていた。

イスラム教国の影響もあってテロが多いため、警備が厳戒だ。

ショッピングモール内の丸亀製麺で昼食を取ったが、だしの味が全く感じられない。

甘だれのような味がする。さらに何となくだが今まで行った3国の中で一番物価が高く感じられた。

 

午後はトランスジャカルタという専用道路が設けられたレールを走るバスに乗ってみた。

ギュイーンと音を立ててガタガタと走り出した。振動がすごい。

結構な人が乗っていて座ってしまうと、車窓が見えず駅を見逃してしまいそうなので立って乗車していた。

すると男性陣から席を譲られたり、空いている席に座るよう促されたりした。

インドネシアは男性陣が穏やかですごく親切だと思った。

レディーファーストが染みついている。

おじさんたちも愛くるしいし、いかつく見える人でも優しく席を譲ってくれたりした。

終点駅まで来たが、特段何もなくすぐに市内中心部まで戻ってしまった。

そして、転職エージェントに挨拶しに行った。

当時私が渡航する一か月ほど前にそのオフィス近くのカフェで爆発があった。

エージェントの担当者はあっけらかんと爆破があった、なんて言っていたけど、

私にとっては非常に恐ろしかった。

夜は爆破があった近くのデパートのフードコートでチキンライスなるものを食べた。

が、めちゃくちゃ辛い。

唐辛子パウダーは別盛りにしてもらったのにもかかわらず、チキンそのものがもう辛い。

その時にインドネシア料理はもう食べられないな…と悟った。

 

翌日、アポイントを取っていたジャカルタ在住の日本人たちと食事会をした。

もう3年ほどジャカルタで働いていた日本人だったので大先輩だ。

現地人たちと働く苦労話を聞けて身が引き締まる思いだった。

 

ジャカルタでは3泊する予定だったが、2日目にして早くジャカルタから立ち去りたいと思った。

車がなければ動けないし、たくさんあるショッピングモールも似たり寄ったりで全然楽しくなかった。

ホテルの1泊分を捨てる覚悟で、急遽ジョグジャカルタへ行くことにした。

ジョグジャカルタではボロブドゥールという遺跡を観光した。

車はあらかじめチャーターし、日本語ガイドも付いていて快適に過ごすことができた。

 

この予定変更は大成功だった。

ボロブドゥールは壮大で、日本語ガイドの説明もわかりやすくて楽しかった。

最終日の夜。ホテルのプールサイドで一人、カクテルを飲んでいた。

何だかんだで8日間、無事最終拠点まで来られたことが嬉しかった。

 

しかし、この後のジョグジャカルタからジャカルタのスカルノハッタ国際空港へ向かう際が一番の難所だったのだ。

翌日国内便でジャカルタに戻りそのまま国際線へ乗り継ぎ予定だった。

3時間もあるのだから、余裕だろうと踏んでいたが…。

スカルノハッタ空港のターミナル間が離れているので移動にシャトルバスを使おうとバス停で並んでいた。

やっときたバスに乗ろうとしたら、中がぎゅうぎゅう詰め。

バスの乗車ステップは高いし、狭いし、その中にスーツケースも人間もごちゃごちゃに入るものだから、

積載重量はとうにオーバーしているようだった。

その中に大きなスーツケースをもった外国人が私の前に5人ほど待っており、彼らはバスに特攻していった。

絶対に入らない、無理だろうと思ったが、次のバスがいつ来るかわからないので私も続いて特攻することに。

何とか、本当に無理矢理詰め込まれたという表現が正しい。

私は乗車口ステップに片足とスーツケースの一部をひっかけることに成功した。

あとは片手で棒に掴まり、片手はスーツケースを支えたまま、体勢を維持しなければならない。

この状態のバスならゆっくり走るべきなのにバスはものすごいスピードで走っていく。

カーブもブレーキなしで走っていく。

私のすぐ後ろには乗車口の扉があった。

扉は壊れて半開きで、下の道路が丸見えだった。カーブに差し掛かると乗客、荷物の重力が自分に降りかかる。

ここで重力に負けて手を放してしまえば、そのまま地面に叩き付けられてしまう。

ここにきて今回の旅で初めて死の恐怖を感じた。

 

片手は荷物を支えなきゃいけないし、脚は片足しか床に付けられていない。

必死でもう片腕を棒に絡みつかせ、カーブをやり過ごした。

 

しかし、さらに問題が発生した。

停車ターミナルなどの情報が全くアナウンスされないのだ。

人に埋もれて外は見えないし、ターミナルの標識も全然ない。

 

これはヤバいな…。

ヒヤリとしたものを感じ絶望しかけていると、日本語が聞こえてきた。

日本人のグループ客がいるようだった。

聞き耳を立てて情報を盗む。

 

その後、無事に目的ターミナルに到着した。

体力をごっそり持ってかれた。

 

ターミナルに着いたものの、私が乗る予定だったガルーダインドネシア航空のカウンターが見つけられない。

電光掲示板は搭乗口番号しか案内されていない。

刻々と時間が過ぎていく。

右往左往しているとカウンターを発見!時間ぎりぎりだった。

電光掲示板の意味ないじゃんか…と毒づいた。

 

機内ではホッとしてすぐに寝てしまった。

帰国後、私はベトナムで働くことを決めた。

第一の希望はハノイで働きたかったが、縁があったのはホーチミンの求人だった。

うるさいクラクションもボコボコの歩道もイライラすることはあるけど、

何だかんだで住みよいし、今は快適に暮らせている。

 

最初に受けたホーチミンの印象は絶対に住めないと直感的に思ったのに今不思議と暮らせている。

それはたぶん、ベトナムの知識や興味がなさ過ぎて先入観や偏見がなく期待も希望も持っていなかったこと、

そして始めにガツンと衝撃を受けたおかげでその後の出来事に驚かなくなったことが要因だと思う。

 

夢のホーチミンライフ(ハート とルンルン行くよりかは、

あーやべーよプープークラクションうるせーなーくらいの気概で渡航した方が案外継続できるもんだなと思った。