滋賀県大津市比叡辻
聖衆来迎寺(しょうじゅらいこうじ)
山号 紫雲山
本尊 釈迦如来(鎌倉時代、重文)、阿弥陀如来(室町)、薬師如来(江戸)
創建年 延歴9年(790)
開基 最澄
別名 近江の正倉院(ようさんの寺宝があることでそう呼ばれている)
ご安心ください。
美濃から続いておりました森可成関連の地も最終章となります。
ここには森りん(しつこいですがこれが最後ですので)のお墓があります。(可成寺にもありましたが)
入口にあった寺の説明は読むのを諦めた
表門(重文)
そうなんです この表門は明智光秀が築いた坂本城の城門を移築したものなんです。
なんでも平成21年~、行われた解体修理により、櫓門であった二階部分を取り除き、本瓦葺きを載せたことや、工具の加工痕が坂本城築城年代と一致することが分かり、坂本城の城門を移築したことは明確になったということです。
表門を内側から。
キンカ光秀さんもこの門潜ってますのよ。
実はここへ来る前に、光秀くんの像がある坂本城址公園へ寄ろうとしたんですが、駐車場満杯で入れず 早くも大河効果なのか!と思ったけど、ここの駐車場平日でも車多いんですわ。バス釣り足軽の車でな
境内のようす。
本堂(重文) 江戸時代築。
本堂周囲の縁が石造りというのが日本の仏堂建築では類例の少ないものであるらしい。
客殿(江戸期、重文)
開山堂
開山堂の説明
森可成の墓
宇佐山城の項で述べたように、森可成はこの聖衆来迎寺付近の比叡辻で討ち死にしました。聖衆来迎寺は、比叡山とは近い間柄にあり、浅井・朝倉側に味方すべき立場にあったが、当時の住職が、敵方の大将である森可成の遺骸を夜間密かに運び込み葬ったという。
元亀2年(1571)、織田信長の比叡山焼き討ちて、比叡山の諸堂や山麓の坂本の町も焼き討ちに合う。その際信長は・・・
聖衆来迎寺は焼くな。
何故で御座りますか
森りんのお墓あるからじゃ。
御意にて候。
そのために多くの文化財が現代までに伝わってはいるんですが、江戸期の災害によって堂舎は破損し再建したとのこと。
因みに、近年では比叡山焼き討ちに関しては全山焼き討ち、老若男女大殺戮。という説は、かなり膨張されてるとの見解がなされてます。詳しく知りたい方は各自調べてください
それから、信長はタダの敵討ちで比叡山を焼き討ちしたのではなく、敵対したから攻めたのです。信長は宗教を否定も弾圧もしていません。
余談ですが、石山本願寺も長嶋一向一揆も越前一向一揆も敵対したから攻めたのです
ほんでから、墓場を少々うろついていると(墓場をうろつくっていうのも変な話ですが)、
こんな人物のお墓を発見
鈴姫(徳寿院)。つまり織田信長の嫡孫・秀信の母。要するに信長の嫡子・信忠の側室の墓である。
秀信とは信長亡き後の「清須会議」で秀吉が一推し!し、わずか3歳で織田家の家督を継いだ、あの三法師である。三法師は9歳で元服し三郎秀信と名乗り岐阜城主になったんですね。関ヶ原の戦いでは西軍に付いて、東軍から攻められて降伏し、改易となり高野山へと追放されちゃうも、入山を拒まれ、山麓に住み、若くして死んじゃった憐れな信長の後継者です。
その三法師の母親が鈴姫といいまして、摂津の国人・塩川長満の娘と云われておりまして、塩川氏は三好氏に属してたんですが、信長に鞍替えし、荒木村重~明智光秀の与力となっていたようです。
その鈴姫の墓がなんでこの寺にあるのかというと、どうやら彼女は晩年この来迎寺で余生を過ごしたようです。何でかというと・・・分かりません
少し調べました。
どうも鈴姫は森可成の娘ではないかという説があるようです。そうなると彼女は父の菩提を弔いながら余生を来迎寺で過ごしたということもうなずける。ちゅうことで御座いますわ。
戦国期の女性に関する史料・記録は非常に乏しいのが現状ですね。
坂本城の城門。森可成の墓。そして鈴姫の墓もあった聖衆来迎寺で御座いました
次回からGW遠征の記事書きますので・・・
だいぶお待ちください。
18/04/21