セイロンに到着
背のたかい岸辺の椰子
かがやく海、はだかの男たちが舟を漕ぐ
年古き聖なる国よ
永遠に若い太陽の焔の恵み:
蒼い山々は霞と夢のなかに消えてゆき
頂きは陽の眩しさに姿を隠す。
わたしを迎えたのはぎらぎらした浜辺:
見馴れない樹々が烈しく宙を睨む
陽に灼かれてよろめくどぎつい色の家(や)並み
気まぐれに明滅する路地裏、とどろく喧騒。
感謝にみちて、私の眼は雑踏に注がれる――
いつ終るともしれない航海のあとで、なんとすてきな場面転換だろう!
わたしの胸は息苦しいほど歓喜に踊る
幸福な旅のざわめきに、恋するように高鳴っているのだ。
前回は、ごく飛び飛びに抜粋引用したジッドの『地の糧』を、こんどは二宮正之氏の新訳で、じっくりと読みこんでみたいと思います。
“熱いアジア”を語るのであれば、この濃厚な讃歌を捨てておくことはできないですからね、ホモの感性をもつ者としては‥‥
「他の人々が本を出したり仕事をしたりしているのに、私は頭で覚えたことを一切忘れようと三年の歳月を旅に過した。この脱知識には時間がかかり困難があった。しかし、それは他人に強要されるあらゆる知育よりも有効であり、たしかに、ひとつの教育が始まったのである。
〔…〕 考えてみると、選択とは、いかなる場合にも恐るべき行為だ。もはや義務に導かれない自由とは恐るべきものだ。それは、誰にも知られていない僻地で選ばなければならない一筋の道だ。そこでは各人が自分ひとりの発見をする、いいかい、自分ひとりのために発見するのだ。〔…〕実際、ある土地とは私たちが近づいて〔ギトン註――自分のイメージとして〕形成するにつれて存在するようになるにすぎないのだし、周りの景色は私たちの歩みにつれて少しずつひらけるので、地平の果てまで見とおすことはできず、近いところでさえも、変容をつづける一連の表象にすぎないのだから。〔…〕
ナタナエル、君はすべてを通りがかりに見るのだ。そしてどこにも立ちどまらないことだ。神だけがかりそめのものでないと、肝に銘じておきたまえ。
肝心なのは君の眼差しであって、眺められる物ではない。これこそ私が君に望むところだ。
君が異物として抱え込んでいる知識は、すべて、未来永劫に、君にとっては異物にとどまるだろう。なぜ、そのようなものに、それほどまでに高い価値を認めるのか。」
『地の糧』「第一の書 一」より;二宮正之・訳『アンドレ・ジッド集成』,Ⅰ,筑摩書房,2015.
私たちの体験は、つねに「自分ひとりの」体験であり、その自分にとっても常に初めての体験なのです。しかし、私たちは、人から教えられたこと、書物で読んだことを体験しているのだと思いこみたがります。これまでに何度も見たことを見ているのだと思いたがるのです。こうして、私たちは世界に対して目を閉ざし、習慣の映し出す像の中で生きていこうとします。
近代人の成し遂げた知識の発展は、あまりにも驚異的な目に見える成果を生みだしたので、私たちは、他人によって検証された知識だけが、――検証されうる体験だけが、私たちにとっての真実であるかのように錯覚してしまっています。「自分ひとりの」体験、「自分ひとりの発見」などは、何ものでもないのだ、他人に通じないことはすべて、間違った知識だ、そんなものは早く忘れ去らなければならない、‥‥私たちは、そう考えがちです。
私たちは、まるで天から与えられた権利であるかのように“自由”を主張するときでも、その“自由”とは掛け値なしの自由ではありません。私たちの主張する“自由”とは、たいていは何かの義務に命ぜられて、義務の物差しが指し示す方向に進む自由でしかないのです。アメリカ人が、「自由か、しからずんば死か」と叫んだ時、その“自由”とは、おのずから、彼らにとっては自明な一定の方向を持っていました。それは、暗黙のうちに強いられた義務であったのです。そのことは、彼らの歩んだ歴史によって証明されています。
しかし、いかなる人間も、ほんとうは「義務に導かれない自由」の上に乗って生きているのです。ほんとうは、各自が、誰にとっても未知の土地で、たえず「自分ひとりの発見」をしつつ生きるほかはないのです。それは私たちにとってあまりにも恐ろしいことですが、そのことを意識しつつ生きることによって、他の何ものにも換えがたい深い感動を日々新たにしつつ、生きることができるのだと言えます。
「ある土地とは私たちが近づいて形成するにつれて存在するようになるにすぎない」
「肝心なのは君の眼差しであって、眺められる物ではない。」
ジッドがこう言ったからといって、“世界は、自分が在ると思うから在るのだ”とか、“世の中は人の心次第だ。世の中を良くしたいと思ったら、自分の心を清くすればよいのだ”などといった唯心論を主張しているわけではありません。
私たちは、自分が生きてゆくことによって日々新たに「発見」する世界の姿を、予見することはできません。世界は、私たちにとって驚異の連続なのです。それがかりに、私たちの「眼差し」が形成するものであったとしても、そのことは、私たち自身の存在が内包している世界そのものが、“外部”世界と同様に無限の多様性を備えたものであって、とうてい私たちの浅はかな臆断が通用する世界ではないことを示しているのです。
「欲求にはそれなりの利益がある、欲求の充足にも利益がある――なぜなら欲求は、 充たされることによってさらに強まるからだ。なぜなら、ナタナエルよ、よく聞いておきたまえ、私の場合、欲求の対象を所有したなどと思うのはきまって空しい幻想で、それよりも欲求そのものの方が私を豊かにしてくれたのだ。
*
甘美な数多くのことに、ナタナエルよ、私は愛を注いで自分を消耗した。それらの事物が輝かしかったのは、私がそのために常に燃焼していたからなのだ。私は飽くことを知らなかった。すべての熱情は私にとって愛の消耗、甘美な消耗なのであった。
異端者中の異端者、この私をつねに惹きつけたのは、常道からかけ離れた意見、極端に迂回する思想、相異なる見解であった。ひとつの精神はそれが他の精神と異なる点においてしか興味を引かなかった。私は、ついには、自分から共感というものを追放してしまった。〔…〕
共感ではない、ナタナエルよ――愛なのだ。
その行為が善いか悪いかなどと判断せずに行動すること。それが善か悪かなどと心配せずに愛すること。
ナタナエルよ、私は君に熱情を教えよう。
〔…〕
共感ではない、ナタナエルよ、愛なのだ。それが同じものでないことは、わかるだろう。〔…〕
(今日は書くことができない。穀物倉で脱穀機の輪が回っているのだ。昨日見たところ、油菜を脱穀していた。菜種の鞘が飛び散り、種子が地面をころがっていた。埃で息ができないほどだった。女がひとり、ひき臼を回していた。美少年がふたり、裸足で、種子を拾っていた。
これ以上に言うことがないので、私は涙を流す。〔…〕)」
『地の糧』「第一の書 一」より;二宮正之・訳.
前の段で、
「肝心なのは君の眼差しであって、眺められる物ではない。」
と言ったのに対応して、ジッドはここで、同様のことは、欲求と欲求の対象についても言えると述べます。
肝心なのは、「欲求の対象を所有」することではなく―――そんなことは不可能だ。所有したなどと思うのは「空しい幻想」にすぎない―――、「欲求そのもの」なのだ。欲求の充足に意味があるのは、欲求を強めてくれるからだ。「なぜなら欲求は、充たされることによってさらに強まるからだ。」
「私を豊かにしてくれ」るのは、欲求すること、欲しいと願って求めることなのだ。欲望そのものが「私を豊かにしてくれ」るのであって、欲望の充足でも、欲望の対象をわがものとすることでもないのだ。
そしてジッドは、「熱情」と「愛」について語ります。ジッドにとって「愛」の対象が輝かしいのは、「私がそのために常に燃焼してい」るから――「飽くことを知ら」ぬ「愛」を注いでいるからなのです。「愛を注」ぐとは、「燃焼」によって「自分を消耗」することであり、あらゆる「熱情」は、「愛の」「甘美な消耗」にほかなりません。
「熱情」とほぼイコールであるような「愛」は、もっぱらエロスの愛だと思うかもしれませんが、エロスだけとは限りません。対象に向って、燃え上がる熱情を注ぎながら惜しみなく与える「愛」もまた存在するのです。
また、ジッドがここで言う「愛」は、同情、えこひいき、同感、協賛といったものとは、まったく異質です。人は、意見や感情が一致するからではなく、むしろ不一致であるがゆえに、自分に無いものを求めて愛することがありうるのです。ジッドは、それこそが人を豊かにする「愛」だと云います。なぜなら、肝心なのは、対象を所有することではなく、愛すること、求めること、熱情をもって愛を注ぐことだからです。
「ナタナエル、私は今までに他の誰も与えたことのない歓びを君に与えたい。どうやって与えたらよいのか、それはわからないのだが、その歓びを私は所有している。今までに誰もしたことがないほど親密に、君に話しかけたい。夜更けの一刻、〔…〕君の熱情が支えを感じられなくて悲しさに変じようという頃、そんな時刻に君のところに行きたい。私は君のためにしか書かない、そういう時刻のためにしか君に向かって書かない。いかなる思索も、いかなる個人的感動もないように君には見え、君自身の熱情の投影以外のものは何もないように見える本、そういう本が私は書きたい。君に近づき、君に愛されたい。
メランコリーとは燃え落ちた熱情にすぎない。
すべての存在は、すっぱだかになりうる。すべての感動は充足しうる。
私の感動はすべてひとつの信仰のように花開いた。わかるだろうか、感覚でとらえられるものはすべて無限の現存性を帯びている。
ナタナエル、私は君に熱情を教えよう。
〔…〕
私たちの魂が何らかの価値を持ったとするなら、それは他のあれこれの魂以上に熱烈に燃えたからなのだ。
広大な原よ、私はお前たちが曙の白々とした光を浴びているのを見た。青い湖よ、私はお前たちの波を浴びた。――笑いさざめく大気に愛撫されるたびに私はほほえんだものだ。ナタナエル、こういうことを私は飽くことなく繰り返して君に言うだろう。君に熱情を教えてやろう。
〔…〕
メナルク、あなたは私に叡智を教えはしなかった。叡智ではなく、愛を教えた。」
『地の糧』「第一の書 一」より;二宮正之・訳.
「私は今までに他の誰も与えたことのない歓びを君に与えたい」
と言ってジッドが与えてくれる「本」は、どんな「本」なのか、読んでみたい気がします。「いかなる思索も、いかなる個人的感動もない」、「君自身の熱情の投影以外のものは何もない」、そして、読んだら、「熱情」をもって愛さずにはいられないような「本」とは、どんなことが書いてあるのか?
それは、ほとんど「メランコリー」に変ずるまでに「燃え落ちた熱情」が、まるで、大きく遠ざかった振り子が揺れかえすように、ふたたび烈しく燃え上がるエモーションなのでしょう。それによって私たちは、深い「充足」を得るのです。
「すべての存在は、すっぱだかになりうる。」「感覚でとらえられるものはすべて無限の現存性を帯びている。」
ジッドの言説は、一面においてはエロスそのものだが、他面、エロス以外を指し示す比喩でもある――ということを思い出しましょう。
「夜更けの一刻、‥‥君の熱情が支えを感じられなくて悲しさに変じようという頃、そんな時刻」にやってきて、「他の誰も与えたことのない歓び」を与えてくれるとは、――これをエロスとして読めば、願ってもない憧れの人がいきなりやってきた夜這いにも思われます。(このさい、妄想を膨らましましょうw)
衣をまとった存在は、その事物そのものではありません。服を着たあなたは、ほんとうは、あなたではない。すっぱだかのあなただけが、あなたという人間なのです。あなたという存在がもたらす感動は、すっぱだかで見られ、さわられ、愛しつくされた時にはじめて確証されるのです。しかし、それはことがらの一面にすぎません。
ジッドが、「広大な原」「青い湖」「笑いさざめく大気」の例を出しているように、私たちが体験するあらゆる事物は「すっぱだかになりうる」し、私たちの接し方しだいでは、いつでも「すっぱだか」の存在をあらわにするのです。「すっぱだか」の存在に出会うことが、ジッドの言う「愛」にほかならないことは、もう説明するまでもないでしょう。
シンガポールにて、中国人の夜祭り
風に吹かれて灯りがながれる
綵花(さいか)にいろどられた高欄の桟敷
腰をおろしくつろぐ祭りの夜(よ)
朗々と詠ずるは遥かむかしの詩人たちのうた
駢々(べんべん)たる琵琶の唸りに陶酔する
娘らは眼を大きくひらき、かがやかす。
星のない夜(よ)を徹して、はばたく蜻蛉(とんぼ)の羽のように
さわがしい管弦が玻璃の杯をふるわせる
褐色の瞳が無言の至悦に笑っている――
眼に微笑みを湛えぬ者はない
はるかに下では、千の明るいひかりの眼を見ひらいて
きらびやかな街がじっと眠りもしないでいる。
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