石田明夫の「会津の歴史」

全国的な視野で見た戊辰・会津戦争の歴史です

戊辰・会津戦争24 母成峠の戦い2

2018年05月23日 | 会津の歴史


母成峠の戦い2

 会津古城研究会長 石田明夫  

 1868年8月21日、旧幕府の大鳥圭介が残した『南柯紀行』に、「六つ半頃(7時)なりしか、東方に当り砲声二発聞えたり。是れ敵来るなり」と、朝7時に西軍が進攻してきたのです。西軍は、南の石筵(いしむしろ)から本道を進み、他方は北の山上、勝岩(かついわ)から進行して来たのです。大鳥圭介は、北の勝岩方面へ移動し、勝岩の下には旧幕府軍第一大隊と新選組がいたのです。「敵群り至り、弾丸雨よりの甚だしく」と、激しい銃撃戦でした。『北原雅長の史談会速記録』によると、会津藩一番総頭の田中源之進が峠の頂上にいて、石筵川を隔てた立岩に大鳥圭介がいて、立岩の下に新選組の土方歳三が戦争をしていたという。その時間は、午前11時頃だったという。会津藩では、三段構えに陣地を築き、中軍山と八幡山、峠頂上には、ざんごう跡と砲台跡が残されています。
 熱海町石筵にある顕彰碑に、猟師の道案内記録があります。橋本次郎七は、西の葵(わさび)沢からの道案内をしています。
 土方歳三は『土方歳三書簡』で、夜五つ(午後8時頃)に、湖南にいた会津藩家老内藤介衛門と御霊櫃峠にいた砲兵隊の小原宇右衛門へ手紙を出しています。「明日(22日)朝までには必ず猪苗代へ押し来たり、明日中には若松まで押し来るだろう」と予想し、猪苗代東岸から進行してほしいと連絡したのでした。会津藩の主力は、母成峠に西軍が進攻してくるとは予想しておらず、中山峠や御霊櫃峠のある湖南にも進攻して来るのでは予想し、動かなかったのです。
 猪苗代城は、城代の高橋権太夫が「一小隊では何の効果もない」と思ったことから、宝物を本城へ送り、土津神社とともに火を掛けて引上げてしまいました。

写真は、母成峠頂上に430残る会津藩構築の塹壕跡・発見 石田

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