郷土教育全国協議会(郷土全協)

“土着の思想と行動を!”をキャッチフレーズにした「郷土教育」の今を伝えます。

道徳の教科化をどうする?

2018年06月20日 | 日記
6月8日(金)子どもと教科書台東ネット21主催で学習会がありました。

講師は、糀谷陽子さん(子どもと教科書全国ネット常任運営委員)八王子で中学の教員をやってらした方のようでした。
とても率直で、柔らかな感性の方で、生徒たちといい関係を結んでいただろうなと思いました。

糀谷さんは、中学校「道徳教科書」から見えてきたこと…どんな「人」を育てようとしているのか?
――①「がんばれ、がんばれ」と叱咤激励、弱い自分へ反省を迫る、
②自分を犠牲にして一方的に集団や社会への従属を迫る
③社会のあり方に目を向けさせず、問題を自分の心の持ち方にさせてしまう
④学問的な到達点を無視して、歴史の事実を改ざんする
⑤徳目を押し付けるための仕掛けとして、生徒に5段階「自己評価」をさせる
ーーと問題点を分析。

そして、教科書に沿っていくと、どのような授業が展開されるのか…具体的に話されました。
正直、聞いていて、気分が暗くなりました。


理科とか算数とかなら、実験をして論より証拠で納得したり、論理で了解したりできます。
でも、「道徳科」は・・・道徳の教材って、国語の物語教材と違って、わざとらしさ、押しつけがましさがあって、正直読みたくないのですが
(20年以上も前、私が教員だった頃は、副読本だったし、無視して、NHKのテレビを見るか、物語の読み聞かせの時間でした)
道徳の教材はだいたい日常茶飯の事柄で、登場人物の行動、気持ちをあれこれ評価する、当然、受け止め方はいろいろです。


たとえば糀谷さんが取り上げた「2通の手紙」

――動物園の閉園時刻は17時、入場締め切り時刻の16時30分が少し過ぎた頃、幼い弟をつれた小学生らしき姉がやってきて入園券を買おうとする。
「入場は締め切った」「大人が同伴でないとはいれない」と規則を言って、入場を断るのですが、小学生の姉は、「弟の誕生日なんだ」と半泣き。
この姉弟は、毎日のように動物園に来ては柵の外から動物をながめていました。

定年後再雇用で働いていたゲンさんは、「5時には帰ってくるんだよ」と入れてあげる。
しかし、閉園の放送が鳴っても、姉弟はもどってこない。
ゲンさんたち職員はあわてて、手分けして二人を捜索。
池で夢中になって遊んでいる姉弟を発見。

その後2通の手紙がゲンさんのもとに来た。
1通は姉弟の母親から、二人がどんなに楽しい時間を過ごさせてもらったかのお礼の手紙。
もう1通は、園の決まりを破ったことへの懲戒処分の通告。
ゲンさんは責任を取って、辞職を決断、自分が至らなかったと晴れ晴れとした顔で去っていったという話です。


「おかしいよ!納得できない!」とか「ゲンさん、かわいそうだ、ゲンさんがなんで辞めなくちゃいけないの」と生徒は思うでしょう。
みんなが感じたことをぶつけ合って話し合う場、教材の結末を批判できるなら意味はあると思いますが、教材の結末を納得させるのが道徳の教科

—―この教材のテーマは、「規則の順守」から、ゲンさんの決断を立派と教師は授業で展開していくだろうというのです。
価値の押し付け・・・誰でもが納得できる根拠もなく、そう行動することが正しいと判定される・・・中学生ならなんも言わない、教師の意図、教室の空気を読んで、しらーっとしているでしょう。
こんなもので授業が成立するものか、私が教員だったら到底やってられません。

「教員たちは、結論を出さないで、ゲンさんの行動に対して自分の考えをいったり、他の人の意見を聞き、反論したり、共感したり、話し合っておしまい――とはいかないのですか」と質問しましたが、
「以前は、そうやっていました。だけど『道徳科』と教科になると、そうはいかない」

「今回ってきた教科書会社の指導の手引きには、『道徳は一つの価値を押し付けるものではない』と書いてありますが」との質問もでました。

「道徳は、3クラスあれば、3クラス同時に担任が同じ教材を扱って、校長が回ってきてプレッシャーをかける」と言う報告。
「評価しなくちゃならないから・・・」と意見もありました。

喧々諤々、ゲンさんの行動を肴に話し合って、もちろん結論は出ないでしょうが、自分だったらどうするか・・・授業の最後に自分の考えを書いてもらう。
批判であろうと、賛成であろうと、自分に引き付けて書いていれば、ハナマルにすればいいのではないでしょうか。


2004年だったか、教育委基本法改悪の頃、郷土教育でも学習会が開かれました。

矢野さんが問題提起者で、「将を射んと欲すれば先ず馬を射よ」ではないが、子どもに「道徳」を押し付ける前に、教師の牙を抜く、物言わぬ羊にするのだーーと指摘していました。

教師たち今、抵抗できなくなっているのでしょうか?
 80年前の戦前戦中の教師のように。

中学生は本音を言うこと、異議ありと言うことはやばい、価値観にかかわることは沈黙、表に出さない態度が養われる。
自分の考えを出して、いろいろな友達の意見を聞いて、だけど私こう思うというと反論しその中で、気づきもあり、自分の考えも変わる、変わらないかもしれない…それぞれが考えを出し合いに率直に話し合うのが面白い・・・そのことを体得してほしい――それが学校教育、授業の核心だと思ってきました。

しかし、このような道徳教育だったら、物言えば唇寒し―の風潮、大勢順応が無難、政治にはかかわらないという身の処し方を浸み込ませるだけではないか。
ーーいやいや、それこそが道徳教科化の意味かと思いました。


国家が押し付けてくる道徳教育に対抗するなら、人権教育です。
個人は国のためにあるのではない、一人一人の民があって、社会が成り立つ。

140年前自由民権運動の中で潰えた夢、そして1945年敗戦、「お国のため」の悲惨を私たち日本人は嘗め尽くしたのではないのでしょうか。

子ども一人一人が自分の価値に気づき伸ばし、自分の考えをちゃんと述べられる、他者の言い分に耳を傾け、異なる他者と共存する民主的な社会を担う市民を育てていくことが、あえていうなら道徳教育ではないでしょうか。


-Ka.M-

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