『厭離穢土・欣求浄土』補足(1)深津氏の由来 | 戦国未来の戦国紀行

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日本の戦国時代について

 ──永禄3年(1560年)5月19日 「桶狭間の戦い」

 

大高城から岡崎城へ。松平元康(後の徳川家康)の逃避行の始まりである。

 

この逃走には3説ある。

①その日の夜、たった8人(一説に18人)で大高城を抜け出した。

②その日の夜、城兵を率いて大高城を抜け出した。

③その次の日の朝、城兵を率いて大高城を抜け出した。

 

③が最もカッコいい!

しかも、「大高城を拠点に、弔い合戦をやる」と言い張る松平元康を一晩かけて、ようやく説き伏せてという超カッコいいおまけ付きの話である。江戸時代の創作であろう。

 

①も、②も、「夜逃げ」であるので、カッコ悪い。

史実は②で、その時に松平元康は、事細かく進軍方法の指示をしたので、それを聞いた織田信長は、

 ──松平元康の将来が楽しみだ。

と言ったという。

 

私の説は、「その日の夜に進軍方法や進軍ルートを城兵に指示して大高城を出させ、織田軍の目がそちらに向いているうちに少数で脱出した」である。

 

 ──三河国内の移動は危険だ。

 

そう考えた松平元康一行は、今川義元の訃報を大高城に伝えなかった岡部がいる鳴海城を避け、品野へ向かった。「尾張国内の今川義元の城」といえば、大高城(城代:鵜殿氏)と鳴海城(城代:岡部氏)が有名だが、品野(瀬戸市)にもあった。しかし、伝承では山田の都筑屋敷に泊まったという。都筑氏は、三河物部氏(弓削氏)で、平岩氏とは同族であるので、平岩親吉が案内したのかもしれない。

 翌朝、猿投を通り、渡刈に出たのは良かったが、目の前には赤く濁った矢作川(当時の呼称は「大川」)が横たわっていた。

 

 ──我れらに舟の一隻なりともあれば。

 

 

 

 

 話変わって、先日の総選挙ではSKE48が1、2フィニッシュ!

 「会場が名古屋だったから」という意見もあるが、凄いと思う。

 

 SKE48の聖地・羽豆岬の北に灯台で有名な「野間(のま)」がある。阿多族がノウマ神を祀ったのが地名の由来だと言うが、定かではない。(個人的には「野と野の間」だと思う。)

 この野間は、源頼朝とはぐれた源義朝が自刃した場所である。(源頼朝は鳳来寺に隠れて助かり、後に鎌倉幕府を開いた。)

 

 ──我れに木太刀の一本なりともあれば。

 

源頼朝は、こう叫んで風呂場で討たれたと言うが、創作である。

実際は切腹であり、介錯人は鎌田正清(「政清」とも)である。

 

 

 

 


 松平元康一行が矢作川を渡る舟の手配をしたのが鎌田正清の子孫の鎌田氏で、この功績により「深津」姓を頂戴したという。

 

 ここが「深津姓発祥の地」だと言うが、言われなくても、深津氏はこのあたりにしか住んでいない。

 

 

 

 

 深津氏元祖の墓。この墓に眠る人物が松平元康一行を救ったのだろうか?

 この墓の東に配津八幡神社があり、松平元康一行はそこから舟に乗ったと石碑にある。

 

 近くには、「三河一向一揆」の時に、徳川家康が逃げ込んだという寺があるが、距離的、方向的に考えにくい。「桶狭間の戦い」の直後に逃げ込んだのではないだろうか?

 

 また、このあたりを「上郷」と言い、上野上村城の酒井家宗主・酒井忠尚の領地であったので、酒井忠次が挨拶に行き、大軍(大高城の城兵)の通過を許可されたとする時代小説もあるが、そういう史料はないので、作者の想像であろう。

 

 さて、何とか大樹寺に入った松平元康は、そこで1人の少年と出会った。その少年が、徳川家を支える人物になろうとは、松平元康はまだ知る由もなかった。(この続きは拙著『厭離穢土・欣求浄土』を買って読んでね~。)↓で売ってます!

 

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