トーキング・マイノリティ

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山下清 展

2017-11-05 21:10:12 | 展示会鑑賞

 山下清 展を先日見てきた。開催場所はTFUギャラリー Mini Mori、山下の代表的な貼絵を中心とする作品約130点を展示していた。山下といえば貼絵画家のイメージが強いが、会場では油彩や水彩画、ペン画、陶磁器の絵付けまであったのは意外だった。会場は「少年期からから放浪へ」「放浪期から画家へ」「円熟期から晩年へ」の3章で構成されており、ギャラリーの公式HPもある。
 また会場には山下の手紙やコメントが数多く展示されており、そこから彼の人柄や独特な考え方も伺える。尤も山下の文章には句読点がなく、文字も小さいため極めて読みにくかったが、その訳を当人はこう話していたという。
人と話をするときは点やマルとはいわないんだな カッコとも言わないんだな



 一般に山下は、芦屋雁之助が演じた『裸の大将放浪記』のイメージが強いだろう。私もこのТVドラマを見たことがあるし、全国を放浪しながら秀作を遺した知的障害者の画家、と思われている。但し、ТVドラマゆえ相当な脚色があり、「テレビドラマとは違う!?山下清の素顔」という記事には、ドラマとは違う事実が挙げられている。
 展示会でも放浪時にはТVドラマなどで有名になってしまったランニングに短パン姿などではなく、夏は浴衣だったという説明があった。ドラマのようにリュックサックを背負って放浪していたのは事実で、山下の使用したリュックも展示されていた。

 展示会では「放浪の天才画家」を謳っており、1940(昭和15)年から1954(昭和29)年までの15年間も放浪をしていたのだから、この謳い文句どおりだ。放浪の期間も様々で、数日の時もあれば数か月に亘ることもあったそうだ。その間、放浪先で働くこともあったという。
 放浪を重ねることになったのは、徴兵検査逃れもあったらしい。尤も戦時中の徴兵逃れは許されず、母が無理やり徴兵検査に連れて行ったことが会場の説明にあった。山下のリュックには茶碗と箸が常に入れられており、放浪先でご飯を貰って食べていたそうな。現代はホームレスの言葉に取って代わられたが、山下は放浪中「ルンペン」と見なされ、そう呼ばれている。

 興味深いのは戦時中という時代にも拘らず、山下に飯を与えてくれる人がいたこと。戦後になっても同じように飯をくれる人に不足しなかったようで、見知らぬ他人にご飯を与える人など、現代日本では考えられないだろう。
 さらに山下は飯だけでなく茶を要求したことがあったそうだ。ルンペンに茶は贅沢だ、水にしろという人に対し、水はお腹に悪いと言い返したとか。勝手にしろ!と怒った相手だが、お湯をくれたという。山下の人柄もあろうが、食料不足だったはずの戦中、戦後でもルンペンには意外に親切な人もいたようだ。



 山下の代表作といえば、やはり花火の貼絵だろう。№50「長岡の花火」(1950(昭和25)年制作)は、本当に素晴らしい。山下は大の花火好きで、「今年の花火見物はどこに行こうかな」が生前の最後の言葉だったという。
みんなが爆弾なんか作らないで きれいな花火ばかり作っていたら きっと戦争なんて起きなかったんだな」という彼の言葉があり、似非も含めて平和主義者にはかなり受けが良いようだ。尤も爆弾がない弓矢の時代から、人類史から戦争は絶えたことはなかったが。



「長岡の花火」も素晴らしいが、№105「ぼけ」も美しい。この絵は今回初めて見たが、貼絵ではなく油彩である。風景画として花を描くことはあっても、花だけの絵は意外に少ないかもしれない。
 1961(昭和36)年、山下は初めて欧州の旅に出る。帰国後に貼絵、水彩画、素描などの作品に仕立てており、会場にもそれらが十数点展示されていた。№108「ストックホルムの市役所」の水彩画は、絵自体より山下の感想の方が面白い。
 市役所の前には幾つもの裸の彫像が置かれ、人々はこれらを素晴らしそうに眺めているが、彼らはみんなパンツをはいている。それなのに、パンツをはいていない像を熱心に見ている……という内容だったと思う。



 1956(昭和31)年、山下は仙台にも来ている。№77「仙台の七夕」はその時のペン画で、実は河北新報の招きで来仙したそうだ。山下は藤崎前で4時間にわたり写生、その絵は8月8日付の河北新報に掲載されたことを書いたブログ記事がある。上の画像は件の記事から借りた。
 仙台七夕に関しても、山下は面白いことを言っている。何でこのようなことをやるんだろう?もとは星のお祭りらしいが、祈ると天候や稲の出来が良くなるのだろうか?でも七夕をやれない処は稲の出来が悪くなって、貧乏になるんだろうか……
 放浪中、日本各地の寺や社をねぐらとしたこともある山下だが、神仏には祈ったことがなかったらしい。祈っても、どのような結果になるか判らない、という理由で。

 1971(昭和46)年、49歳の若さで山下清はこの世を去る。生まれは1922(大正11)年、激動の時代を駆け抜けた画家だった。もう少し長く生きてほしかった、と思う人も多いだろうが、晩年には視力の低下により貼絵の制作が困難になっていたという。会場で展示されたのは彼の作品の一部であったとしても、とにかく見応えがあった。これだけの作品を遺した画家が軽い知的障害だった自体、未だに信じ難い。

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