「ルー、どうした?」
私は、はっちゃんに、足元に落ちていた袋を持ち上げて見せた。
「ね、これ、落し物みたい。」
「落し物?誰か置いていったんじゃないの?」
「でも…。」
周囲を念入りに見回してみたけれど、人の気配はない。
大きな公園の遊歩道で、明るいうちはジョギングの人や散歩の家族連れが通るけれど、 すっかり暗くなった今は、そんな人も見受けられない。
私たちだって、普段はこんな道は通らない。
予備校の帰り道、急いで帰りたいから、近道のために通ったのだ。

「寒いから、早く帰ろうよ。」
はっちゃんは急ぎ足でここまで来たことからもわかるように、本気で先を急いでる。
「うん。でも、落とした人、困ってるかも。」
「何が入っているの?ゴミじゃないの?」
「ゴミにしては重いけど…。」

私は、どこにでもある白い紙袋の中を覗いてみた。
厳重に封がされているわけでもない。
中にもう一つ、茶色の紙袋が見えた。
薬局で薬を買うと入れてくれる、あの茶色の袋だ。
真四角の手触りがした通り、出てきたのは札束だった。
「はっちゃん、これ、お金だ!」
「うそっ!」
私たちは一番近い街灯の真下まで行って、じっくりと確認した。
100万円の札束が3つ、風袋が付いたまま無造作に入っていたのだ!

「これ、100均で売っているおもちゃじゃないの?」
「にしても、よくできてるね。」
「ま、確かに。だとしたら、これヤバいよ。」
「そう?事情は分からないけど、落とした人がいたとしたら、すごく困ってるよ。」
「ルー。よく考えてよ。こんなところに落としたとしたら、すぐに探しに来ると思わない?」
「どこで落としたのか分からないのかもよ。」
「なんか、ヤバいお金だよ、きっと。関わるのやめようよ。」
「はっちゃん、刑事ドラマの見すぎだよ!」 
「ああ、もうめんどくさい!あたしは帰るよ。もうすぐ『秀吉ラプソディー』が始まっちゃうんだ。今日は録画予約を忘れちゃったから、絶対帰る。1週間にこの1時間だけが私の憩いの時間なんだよ?最終回だけ見逃すなんて、耐えられないもん。」
「うん…。」
「じゃ、行くからね。ルーもそんなもの、そこに置いてくか交番に届けるかして、早く帰った方がいいよ。センター試験まであと1か月ないんだよ。ここまで頑張ってきて、冷えてインフルエンザで受験に響いたなんて、笑えないからね!」
「うん。わかってる。交番に届けて、すぐ帰るよ。」
「よし。じゃーね!」

はっちゃんは分厚いマフラーでもう一度口元をきっちり覆うと、勢いよく走り去った。
ひとりになってみると、空気の冷たさが肺に突き刺さる。
早く交番に行って届けようと、私も歩き始めた。
ここから交番へは、今来た道を駅前まで引き返さなくてはならない。
家まではもう一息、そこまでなのに。
確かに、ちょっと面倒くさいなと思った。
明日でも、いいか。
10歩歩いたところで立ち止まった私は、そのままくるりと向きを変えて、家に帰ることにした。
寒くて面倒だから。
それしか、理由はなかった。
はずだった。

ヒンヤリとした部屋に戻り、手早く制服を脱いで部屋着になる頃には、少しずつエアコンがきいてきて、空気が暖かくなった。
すると、机に置いた紙袋が俄然気になり始めた。
別にやましい訳でもないのに、部屋のカギをかけて、机の上に3つの札束を並べてみる。
もう一度よく見たが、やはり本物のようだ。
私がこれを拾ったことは、はっちゃんしか知らない。
そして、そのはっちゃんは、私がこれを交番に届けたと思っている。
私が家に持ち帰ったことは、私しか知らないのだ。

もしも300万円が自由に使えたら、何がしたいかと考えた。
何も、浮かんでこない。
机に載ったパソコンを起動して、300万円で買えるものを調べてみた。
ホンダのフィットだったら2台買ってもおつりがくる。
この前、かっこいいなぁと思って眺めたモンクレールのダウンコートは10着以上大人買いしても楽勝。
一度行ってみたいハワイ旅行も、往復ビジネスクラスで、カハラリゾート最上階のスイートに宿泊して5日間で250万円くらい。あと50万円お買い物ができる!

不思議な気分だった。
家が買えるとか一生働かずに暮らせるという金額ではない。
その気になれば5日で使い切れる額と分かると、何か大したことないような気がしてきた。
使ってしまったら犯罪かもしれない。
でも、ちょっとの間持っているだけだったら…。
誰にも言えないヒミツを抱えるのは、17年の人生で味わったことのないドキドキだった。
明日には交番に届けるのだし。

その夜は、なんだか興奮して眠れないまま、朝になった。

朝方ウトウトしたせいで、寝坊してしまった私は、あの、机の2段目の引き出しの奥にしまっておいた紙袋を取り出さずに学校へ向かった。
一度帰ってから、交番に行こう。
特段、考え込むこともなしにそう決めて、いつものルートをいつものように登校した。

が、何かがおかしい。
誰かが、私を見ている気がする。
でも、何度見回しても、それらしい視線を捕まえることができない。
私は首を傾げながら、寝不足のせいだろうと考えた。

ふと、はっちゃんのことが頭に浮かんだ。
寝坊したせいで、いつもより電車が2本も遅れてしまった。
はっちゃんはもう、学校についているだろう。
ふと、はっちゃんが、夕べ私が紙袋を拾った話を、みんなにしているのではないかと、思った。
なんといっても、インパクトのある出来事だ。
あれからどうした?交番に行った?と聞かれるに違いない。
行ったと言えば、嘘をつくことになる。
行かなかったと答えたら、どうなるだろう。
「本当は、もらっちゃうつもりだったんじゃないの?」と、言われるに決まっている。
はっちゃんは優しい子だから、私にそんなことは言わないかもしれない。
でも、立場が逆だったらどうだろうか。
私はきっと、「ネコババを決め込むつもりだった?」とからかってしまう。

コートの中で、全身からじっとりと汗が滲んできた。
今朝の電車は暖房が利きすぎてる!
盗もうとなんかしてないわ!
私は、心の底で、うすうす気づき始めた。
夕べまっすぐ交番に行かなかったこと、今朝寝坊を理由に交番を後回しにしたことが、いかに愚かな選択だったか。

また、誰かに見つめられた気がした。
おかしい。
見張られているのだろうか。
あと駅1つで降りるというところに来て、私はじっとしていられなくなった。
頭の中で、黒づくめの男たちが、お金を取り返すために、私の家になだれこむ様子が何度もリプレイされていたからだ。
何も知らない母が抵抗して、男たちに殴り倒される。
違うの!
お金は返すわ!
私はいつもの駅で降りると、あわてて反対側のホームに回り込み、家に戻る電車を待った。

考えれば考えるほど、危険なことだらけに思えてきた。
あのお金は、麻薬かなんかの取引の代金だったのかもしれない。
やましいお金だから警察に落としたと届けられずにいるのかもしれない。
お金を置いた人が、親分にお仕置きされて、殺されてしまっていたらどうしよう。
私が、殺人の原因を作ったことになる!

頭の中が鉛色に染まっていく。
一番の親友だと思って疑ったことがないはっちゃんに、秘密を持ったのが、何より苦しい。
寒かったから、後回しにしただけなの!
でも、大好きなはっちゃんから、「本当は…」と疑いの言葉を言われるのは辛すぎた。

乱暴にドアを開けて、家の中に駆け込んだ。
驚いた母が出てきて、どうしたの?と追いかけてきた。
何でもない、途中で気分が悪くなったのと、言うしかなかった。
まさか、机に隠した300万円を取りに来たとは言えない。

母は、とても驚いて、私の部屋までついてきて、熱はないのか、夕べ寝冷えをしたのではないかとあれこれ聞いてくる。
朗らかで、やさしい人なのだ。
そして、いつも正しくて、成功する。
私が拾ったお金を家に持ち帰ったと聞いたら、何と言うだろう。
言えなかった。

母を部屋から追い出すために、パジャマに戻ってベッドに入って見せなくてはならなかった。
学校には、母が欠席の連絡を入れてくれることになった。
母が部屋を出たとたんに飛び起きて、引き出しを開ける。
あの紙袋は、入れた時と変わらない様子で、そこにあった。

安全地帯であるこの部屋に戻ったことで、私は少し冷静さを取り戻した。
とにかく、あのお金を交番に届けて、このことから逃れ出よう。
今すぐ出ては、母に疑われかねないので、あと1時間くらい休んでから、もう治ったと言って家を出ればよいに違いない。
行動計画がはっきりすると、全身が疲れに包まれた。
夕べ、あまり眠れなかったせいもあるのだろう。
ぐっすりと眠り込み、目覚めたらもう12時が目前だった。

3時間も眠っちゃったわ!
少し慌てて布団を跳ね上げたとき、また、あの視線を感じた。
まただ!
絶対、絶対に誰かが見ている。
部屋の中をじっと探すが、今回も正体が分からない。
心の中に、またゾゾっと悪寒が走った。
のんきに寝ている場合じゃない。
交番に行かなくては。

その時、鞄の中に入れっぱなしだったスマホがコロンと鳴った。
ラインだ。きっと、はっちゃんだわ。
鞄に手を伸ばしかけて、あわてて引っ込めた。
読んでしまったら、きっと書いてある。
どうしたの?大丈夫?だから夕べ言ったじゃない、あんなお金なんか放っておいて…

私は両手で髪をぐちゃぐちゃにかき回した。
とんでもないことに巻き込まれてしまった。
交番だって同じじゃない!
どうしてすぐに届けなかったのか、盗むつもりだったのだろうと言われたら、なんて言えばいい?
寒かったからなんて言い訳が、通用するとは思えない。

私は何もかも面倒になった。
そうだわ、このまま、何もなかったことにしよう。
学校は、しばらく休んでもいい。
風邪が治らないと言って、家で勉強していればいいのよ。
大学に入ってしまえば、高校の友達とは滅多に会うこともないだろう。
はっちゃんだって、その頃には、紙袋のことなんか忘れてしまうに違いない…いや、忘れてほしい。

また、視線を感じた。
だんだん、視線が熱を帯びていくようだ。
やめて!
私は頭から布団をかぶった。
本当に、寒気がしてきて、私は唇を震わせた。



センター試験当日の朝を迎えた。
とうとう私は、あれから一度も学校に行けなかった。
でも、勉強はしていたと思う。
集中はできなかった。
お金の落とし主が、私を監視しているからだ。

朝早く、家を出た。
私が家を出られただけで、両親はもう合格したかのように喜んだ。
駅に向かう。
あの視線が、じっとりとついてくる。
家の外は危険だ。
私は今日、生きて帰れないかもしれない。

不運はもう、始まっていた。
誰にも会わないように、とても早く家を出たのに、ホームにはっちゃんがいたのだ!
はっちゃんは手を振りながら駆け寄ってきて、呆然とする私に抱き付いた。
「ルー、よかったぁ、ラインしてもメールしても返事ないし、心配してたのよ。具合はいいの?」
「うん。心配かけてごめんね。」
ホームに向かって、キキキーと大きな音を立てながら、電車が駆け込んでくる。
はっちゃんが、まだ私の両腕をしっかりとつかんだまま、私を揺さぶって言った。
「あんなお金なんか拾うから、おかしなことに巻き込まれたんじゃないかって、ほんとに心配したんだからね!」

私は反射的に、全力ではっちゃんを突き飛ばした。
その反動で、体がグラリと線路の方にむかって揺らいだ。
ホームの半ばまで入ってきていた電車が、すぐそこに見えた。
「キャーッ!」
はっちゃんの悲鳴が耳障りに響いた。
体のバランスを失いながら、私はホームの向こうから、私をじっと見つめているあの視線の主をようやく捕まえた。
一瞬、視界をよぎったその姿は、私と同じ制服を着て、私の顔をしていた。






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