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秋田巡礼-霊的講話【9】-2016年5月6日シュテーリン神父様「あわれみの御母の御業(回心の御恵)」

2017年05月12日 | お説教・霊的講話
2016年5月6日 秋田巡礼 シュテーリン神父様霊的講話9
「あわれみの御母の御業(回心の御恵)」

同時通訳:小野田圭志神父


マリア様の憐れみの御母の具体的な仕事、具体的な活動についてモットーについて、お仕事について黙想しました。

マリア様はまず、誤謬と罪によって破壊し尽くされた廃墟の前にご自分を見ています。たった1日でも、たった1年だけでも、全ての国を回心させたマリア様に私たちは信頼しきっていない、これが問題です。最も悪い罪に凝り固まった悪意の罪人であっても、マリア様は回心する事ができるという事を、そのマリア様の憐れみに信頼していない、という事です。まだ生きている限りは、マリア様はその人がまだ生きている限りは、たとえその人がどのような最悪の、もっとも邪悪な宗教の中にいたとしても、どのような者であったとしても、「救いたい」と思っている事を私たちはまだ確信していません。

皆さんの中には、或いは皆さんの中の多くは、かつてそのような状況にいらしたかもしれません。皆さんはこうマリア様にお尋ねになるかもしれません、「おぉマリア様、一体なぜ私にはそのお恵みを下さって、他の方にはそのお恵みを与えないのですか?日本には私よりももっと高貴な霊魂がいらっしゃるのに、なぜ私をお選みになって、なぜ私には憐れみを下さったのですか?彼らはまだ異教の闇にいますけれども、私は光を得て回心する事ができました。なぜ私にはその憐れみを得る事ができたのでしょうか?」

マリア様はこう答えるでしょう、「そういう風に尋ねないで下さい。私の憐みの真理は、あなたの小さな頭にはあまりにも偉大すぎるのです。そうではなくて、あなたは私がして欲しいという事を、ただ友人の日本の方々の為にするだけで良いのですよ。何故ならば、私はあの人にもお恵みを与えたいのですけれども、お恵みを与える為には道具が必要なのです。あなたがその道具になって下さい。」ですから、「なぜ私がお恵みを得て、他の人はお恵みを得ないか」と聞く時には、「何故ならば、あなたが他の人のお恵みの道具となる為ですよ。」

では、既にかつて信仰の恵みを受けて光を受けた、キリスト教信者の場合について話してみましょう。

しかし、たとえ信仰の恵みを受けたとしても、ある時その信仰を捨ててしまいました。それは現代の多くの多くの多くのカトリック信者で、私は多くの親御さんたちが私に、その子供たちについて嘆いているのを聞きました。

このような人たちは異教徒たちよりも更に状況は悪いのです。何故なら、異教徒たちはかつて光を受けた事がありませんでした。ですから、「No!」と言う機会がありませんでした。でもキリスト教信者は既に光を受けたのです。しかもそれにもかかわらず、「No!」と言いました。では何かこれらを助ける事ができるでしょうか?

では今から、想像してみましょう。とても悪い子供がいたとします。その多くの罪を犯した子供のお母さんなのです。全世界はそのような子供を見て、本当に馬鹿にして、軽蔑します。もしもこのお母さんが良い母だとしたら、その子供が不良だという事で、「もう親子の縁を切る!」と言うでしょうか。良き母の心は憐れみです。良き母は聖モニカにのようにするでしょう。聖モニカは聖アウグスティヌスの回心の為に18年間、祈り、祈り、祈り、祈り続けました。もしもそのような子供がちょっとでも回心の兆しのようなしるしを見せたら、お母さんはどれほど嬉しいでしょうか。もしもそのような子供が、もう罪に陥って罪の鎖に陥っているこの子供が、ある時、「お母さん!助けて欲しい!」と言った時に、その母親はどれほど喜ぶでしょうか。その時お母さんが、「何、お前、自分で泥の中に入ったのに、自分で起きなさい!」と言うでしょうか。きっとその良きお母さんは、私にしたようになさるでしょう。

私がまだ子供の時に、いつだったかちょっと覚えていません、何才だったのか。私の家に豚を飼っていました。それから豚小屋をきれいに掃除しなければなりませんでした。私は父のお手伝いをしていつも豚小屋をきれいにしていました。豚が食べた後で体の中から出す肥をたくさん、その豚小屋の外に山のようにこう積んでありました。そしてその横にはちょっとした溜め池があって、その豚の体内から流れ出るそのような物がたくさん溜まっていました。そしてある時、その周りでちょっと遊んでいて、アッという内にその溜め池の中にドボン!と入ってしまいました。その溜め池には底が無いので、ズブズブズブズブと入ってしまって、おそらく5才か6才だったと思います。誰もその周りにいませんでした。そこで私はズブズブズブと入る時に自分の全力を振り絞って、「お母さーん!!!」と叫びました。その時母は台所で料理をしていたのですけれど、私の声を聞きました。もしも母が聞いてくれなかったら、私はそのまま溺れていたところです。母はそこの台所からバッとこうダッシュしてこう駆け寄って、そしてこの溜め池にズボーン!と入って、私をガシャッと取って救ってくれました。3日間、私の体からは豚の汚物の匂いがずっとして、部屋から出る事ができませんでした。

ポーランドにいた時に、私は老年の方で55歳ぐらいの方の訪問を受けました。そのご夫人はギブスをはめておられました。そのご夫人は私にアドバイスを求めました。自分の息子さんが不良の道に入っているので何とかして救いたいのだけれども、どうして良いか分からない、との事でした。こう話しをしている途中に、どうもその話しの端々から、「あぁ、このお母さんがギブスをしているのは、これは息子が暴力をふるって腕を折られたのだ」という事が理解できました。その息子さんが自分のお母さんをあまりにも乱暴にこう殴ったので、お母さんはその腕を折ってしまったのです。

「奥さん、息子さんに怒っていませんか?」と聞きました。「神父様、私の子供ですよ。」この奥さんは、自分の事など全然構わなかったのです。ただ自分の子供を救いたい、それだけでした。もしも田舎に住んでいるこの奥さんがそれほど子供の事を考えたのなら、マリア様はそのどれほど私たちの事を考えるでしょうか。

チェンストホーバの有名なブラックマドンナ、黒いマドンナの御影です。これはポーランドの国を挙げての聖地です。この頬に傷が2つ付いています。この2つの傷はどうやって付けられたか知っていますか?異教徒あるいはプロテスタント、どっちかちょっと詳しく忘れてしまいましたが、そのイコンを傷付けようと、壊そうとしたのです。刀を持って剣を持って、それで壊そうとしました。そして半分壊されたその絵を、有名な画家がそれを回復します、修復します。全て完壁に回復したはずなのに、この傷だけは残りました。それで修復しようと修復しようと、何とかしてこう元通りに復元しようとするのですけれども、この傷が現れるのです。

マリア様はこれで何を私たちに示そうとしているのでしょうか?それは、「マリア様はたとえご自分に冒瀆的な、瀆聖的な痛みを与えつけようとするようなその子でさえも、そのような子にさえもマリア様は決して顔を背けずに、この子を助けたい」と思っているという事です。マリア様は皆が見る事ができるように、この憎しみの傷をその皆に見せようとしています。「ご覧、我が子よ。これがお前が私にしようとした事ですよ。でもこの傷は何でもありません。何故ならお前は私の子供だから。」

天主様は本当に皆さんの霊魂を救いたいと思っています。回心の事業が誰にとっても易しいものであるようにしたいと思っています。それを易しくするのが母です。聖母です。

どんなに極道のヤクザのようなものすごい人々の前にも、憐みの目を、眼を、決して背けない母がいます。

私は今これでお伽話を、作り話をしているなどと考えないで下さい。例えば皆さんもしかしたら、私はこれ「カトリックの教えから離れているんじゃないかな」と疑うかもしれません。聖ベルナルドはこう言っています、「どうして人は、自分の弱さの為にマリア様に近付くこうとしないのだろうか。マリア様には何も恐れるべきものはなく、何も近付く事を妨げるものはない。マリア様の全ては心の優しさ、そして柔らかさ、そして憐れみだ。だからそのような素晴らしいお母様を私たちに与えた、その御方に感謝しよう。」

ここで、全人類の中で最も最悪の人に存在に辿り着きます。その全人類の中で最も極悪の人は、私たちです。「神父様、何を言っているんですか!?良いカトリック信者が最悪の人ですって?」皆さんとか私のように、天主様に忠実であり、天主様の御旨を果たそうとしている人がなぜ悪いのでしょうか?

もしも誰かが、とても良い友人を持っていたとします。ところが突然、理由もなくこの友人を侮辱します。するとその友人は、「え、お前これ、何でいきなりこんな事をするんだ?」「すみません、ごめんなさい、ちょっと何か、どうしてこんな事をやったのかちょっと分からないのですけれども、傷付けてしまいました。悪い態度でした。申し訳ありません。」もちろん彼は親友ですし、良い友達ですから、彼は私の事を許してくれます。しかしそのしばらく後に、もう一回侮辱します。

ある時私はポーランドで、ある青年が神学校準備生として入会を入学を求めた子がいました。

3ヶ月後、この子は態度が良くありませんでした。さらに3ヶ月の後で態度がますます悪くなって、いろいろなところで周りの人々に、私たち聖ピオ十世会について悪口を言いふらして歩いてまわったのです。

ついにその神学生は3ヶ月後、神学校を出て、さらに聖ピオ十世会の色んな悪口を言いふらして行くのですけれども、1年後に帰ってきました。「神父様、すいません、私、何をしたのか分かりません。えぇと、もう一度神学生として受け入れて下さい。」

私と、他の同僚と、他の神父様と、ブラザー・クラウスというドイツ人のブラザーが相談しました。ブラザー・クラウスという方は聖ピオ十世会の最も年季の長い間いらっしゃるブラザーの1人です。私がもう1回彼を入学を許可したと聞いて、彼らからは「神父様には希望がありません」と言われました。

「この子の事をよく知っているじゃないですか、神父様。この子は何回やってもダメに決まっていますよ。」

でも私は言いました、「でも、まぁもう一回チャンスを与えてあげよう、もう一回いいじゃないか。」

ブラザー・クラウスは「この、まぁ様子を見てみましょう」と言いました。で、やっぱり 3ヶ月後に同じ事が起こりました。で、3ヶ月後に出て行って、それからもっと酷い事を、私たちに反対の悪口を言いました。ブラザーは、「ほら神父様、言った通りでしょう」と言いました。

2年後、この男の子がもう1回やって来ました。それで私は、本当にちょっとおかしいのですが、このもう1回受け入れます。そして神父様たちは皆私の事を、「神父様は本当に気が狂っている」と言いました。

3ヶ月後、また同じ事が起こりました。その青年はさすがに4回目はもう受け入れてくれないだろうと思って来ませんでした。何故かというと、もしも私が4回目を受け入れたとしたら、きっと他の神父様たちが革命を起こして私を追放したかもしれないからです(^^;)。

私は彼を3回も受け入れるほど狂っていました。イエズス様を見て下さい。何回でしょうか?何回私たちはイエズス様に、「あぁ、イエズス様、ごめんなさい。後悔しています。」

私たち良きカトリック信者はこの事を、この点を考えなければなりません。私たちの過去の告解、そして私たちの過去の遷善の決心と宣言、立派な遷善の決心、荘厳な約束、朝の祈りで今朝、「今日こそは私は、主に背くまじと決心し奉る。」しかしいつも同じでした。もしもそのような事が3回起こったとしたら、もうそれで普通ならば受け入れられません。そのような不公平な事を見て私たちは、少し自分の事について心配しなければなりません。全く問題なく、最も荘厳な約束を何度破ってきた事でしょうか。

では今、どうしたら良いでしょうか?

ではまた空しい宣言と空しい約束を持ってイエズス様の前に行くのでしょうか?私はこういう人を知っています、誠実さとか真面目さという事を主張する人々です。そういう人たちは、「もう空しい言葉や、空しい約束や、空しい宣言はもうしたくない」という事で、「もうイエズス様の元に行かない」という人です。

しかし、そうやって全てをやめてしまう事によって、天主様に対してますます不誠実になってしまうのです。何故かというと、とどのつまり全ては天主様から私たちは頂いていますし、とどのつまり結局はイエズス様から私たちは赦しを得なければならないからです。

今ここで大問題は、平凡な生ぬるいキリスト教徒として留まるか、或いは聖徳の道を進み行くか、このどちらかです。

皆さんがたとえ素晴らしい宣言文を持って、血で染めたスタンプでサインをした物を持っても、皆さんが良くなるわけではありません。何故かというと、この宣言をするに、皆さんは自分に、自分を頼んで、自分に信頼して、自分によりかかってそれを作っているのですから、皆さんはこれを破るに決まっています。

1つしか解決方法がありません。

マリア様です。もしも私たちが常に同じ罪に陥ってしまうなら、天主の御稜威の前に立つ事を恐れてしまうでしょう。イエズス様はこう私たちに尋ねられる事でしょう、「お前は一体どこまで私を釘付けにし続けるのか?お前は微笑みを受けながら、こう宣言を以って私を釘付けにし続ける。」

天主の正義をそのように何度も屈辱する事を恐れた霊魂たちが希望を失う事がないように、天主は御自分の御憐れみの生き写しを、つまり聖霊の浄配を私たちに送って下さった。

母が来ました。その自分の、ご自分の汚らしい子供を自分の手にとって、その皆さんの全ての弱さ、そして皆さんの努力とその躓きと、色んな試練を全て含めて、マリア様は皆さんを連れて、ご自分と一緒に天主の玉座に連れて行きます。でもイエズス様はマリア様を決して拒否する事はありません。マリア様は私と共に、イエズス様の前に玉座の前に跪きます、いとも清き汚れのない天と地の元后が。

そして私。マリア様の子供ですけれども、汚らしい恐るべき極悪人。マリア様はこうやってイエズス様に申し上げます、「我が子よ、私たちにはお願いがあります。」私はマリア様の顔を見ます。マリア様は、「私」はお願いがありますではなくて、「私たち」にはお願いがありますと言ったのを聞いたのです。マリア様と私は1つで、「私たちにはお願いがある」と言っているのです。

マリア様をご覧になってイエズス様はにっこりと笑って、「うん、どうぞ、仰って下さい」と言います。マリア様は私の方を見て「さあ、話しなさい」と言います。

「え、え、え?ぼ、僕?僕の話は、ただ、えぇっと、オオカミ少年で、話だけなのですけれども…」「話しなさい。」そこで私はマリア様の方を見て、こう震える声でこう言います、「おぉ、我が主イエズス・キリストよ、もう何千回も同じ事を申し上げました。私の宣言というのは全くバカバカしいと知っています。約束を守る事もできません。マリア様が私に話しなさいと仰るので、私ではなくマリア様に免じて私を赦して下さい。“キリエ・レイソン”主よ、憐れみ給え。」

イエズス様は、「あぁ、またか」とは仰らずに、「もちろんだ。赦してあげる」と仰います。何故かというと、イエズス様はマリア様を喜ばせたいと思っているからです。

イエズス様はあなたを皆さんを赦します。何度も何度も何度も何度も、何千回、何万回もの罪の赦しが与えられます。そして何度も何度も、その罪人を自分の聖心に、至聖なる聖心に受け入れます。これが悔悛です、罪の痛悔です。これが天主の憐れみの御母の業です。

もしも罪を犯したのならば、たった1人でイエズス様の所に行かないで下さい。自分の力でやるのではなくて、「我、今より心を改め、決して御身に背く事あるまじと決心し奉る! どうだすごいだろ!」

そうではなくて、マリア様の方にいつも行って下さい。「マリア様、私は本当に幼い子供です。私は御身がいなければ倒れてしまって、また、また倒れてしまいます。どうぞお傍にいて下さい。」

これこそが本当の霊的戦いです。これが私たちの事実を本当に理解する事です。

まず自分が破壊され尽くされた、という事をよく理解して下さい。いつも約束を破っている事を理解して下さい。本当に馬鹿ばかしい泥の一塊で、それ以外何でもないという事を理解して下さい。でも天主様にとってそれは問題ではないのです。マリア様にとっても問題ではありません。マリア様はよく知っています。マリア様は皆さんが何かを、皆さんよりもよく知っています。たとえ皆さんが惨めさとか汚らしさを知らなくても、マリア様はよく知っています。

マリア様の前で憐れさを見せて、マリア様に助けを求めて下さい。まず皆さんの惨めさを、悲惨さを認識して、マリア様に心から願って下さい。そしてマリア様の御元に平伏して、マリア様にお願いして下さい、「マリア様、マリア様だけが最後のチャンスです。」

マリア様は皆さんがやって来るのをずっと待っていました。そして皆さんがマリア様にその指の1本を出すのを待っていました。そしてそれを取って仰るでしょう。もしも明日また罪を犯して倒れてしまったら、何が起こるでしょうか。同じ事をして下さい。

マリア様は、「あぁ、我が子よ。立ち上がって、その泥から立ち上がって下さい。決して『また落ちた、また落ちた』と言わないで下さい。何故ならまた、また、何度も何度も何度も落ちるでしょうから。」マリア様が皆さんをこう助けて下さるのを許して下さい。私たちが罪を犯して倒れる度ごとに、ますます少なく自分を信頼して下さい。ますますマリア様の傍にいればいるほど、もっとマリア様の清さは、そしてその光を愛して、その罪の醜さを憎む事になるでしょう。

これは罪を犯したらすぐになさって下さい、すぐに。たとえ小罪であれ、大罪であれ、すぐにして下さい。

どのような罪を犯してもすぐに、マリア様の元に身を投げ出して下さい。マリア様の憐れみに信頼して下さい。

マリア様は皆さんのお憐れみです。皆さんを待っています。マリア様はすぐに行って助け出してくれます。マリア様は私たちが最高の痛悔の念を起こすのを助けてくれます、遷善の決心を。イエズス様はすぐにもう一度私たちを赦して下さいます。次に告解に行く時には、その時は全てうまくいってるはずです。

マリア様に手を差し伸べるのが時々ではなく、いつも、しょっちゅう出して下さい。つまりマリア様の現存を、マリア様の事をよくよくもっともっと頻繁に考える、と。朝1回夜1回ではなくて、いつも常に、という事です。

ロザリオをずーっと唱えている事はできません。でもマリア様と共に一緒にいるという事は、マリア様の現存の中に生活するという事です。マリアはいつも私たちと共にいて下さいます。考えて下さい。マリア様は私たちを本当に愛しています。たとえ危険の時だけでなく、喜びの時も、いつもしょっちゅうマリア様の事を考えて、「あぁマリア様、愛しています」と。

「天地の元后よ、キリスト教の軍隊の総指揮官よ、助けて下さい、悪魔が誘惑しようとしています。疲れてもう本当に弱くなっています、もうできません。でも、マリア様と一緒ならばできます。マリア様は私の力です。信頼しています。」

「マリア様、もう理解できません、分かりません。何か問題だらけで頭がいっぱいです。でもマリア様、御身は私の光です。私の教育者、私の光ですから、私に教えて下さい。」

皆さんはお父さんお母さんですね。自分の子供を自分で教えて、天主へと導こうとするのですか?忘れて下さい。「子供に対して厳しくあるか、優しくあるか、コラッ!と怒るべきか、ニコニコッとするか、よく分かりません。私を導いて下さい、道を示して下さい。」

こうやっていつもマリア様の考える事と、マリア様はいつも皆さんと一緒にいるという事です。

マリア様といつもこうやって親しく一緒にいる、という事に慣れると、次の誘惑は何でしょうか?

昔は悪魔がニコニコと笑って来て、そして私たちに近付いて、マリア様がいないのでボンッと一撃で私たちはもうこれで終わっていました、罪を犯していました。

いつも次のことが起こっています。今ではインターネットや携帯があるので、1つのクリックで、クリック1つでもう大罪です。これが今の現代の世の中です。私たちの青少年はいつもこの罪によって倒れています。でもマリア様と共に生きているなら、生活しているなら、マリア様といつも一緒にいて、マリア様にいつも手を差し伸べているなら、皆さんたとえコンピュータの中で働いていても、たとえば「ここをクリックしなさい」というのがチカチカしていると、もしかしたら「クリックしようかな」と思うかもしれません。

でもここにマリア様がいらっしゃるじゃないですか。昔はこのマリア様の事を考えませんでした、マリア様はニッコリと笑っておられます。「No!!」と。私はそういう事が何度もありました。

誰かがその大罪に落ちようとするその瞬間、でもこの人はマリア様の無原罪の聖母の騎士でした。彼はこの人は情念が沸き起こってもう罪を犯すその瞬間でした。この罪を犯すその瞬間、不思議のメダイ、スカプラリオ、「あぁ、私にはできない。」

マリア様はどうやって救ってくれるか知っていますか?マリア様はたとえ罪を犯した後でも助けてはくれますが、もしもマリア様にいつも忠実であるならば、罪を犯さないように助けてくれます。たとえ誘惑が来ても、マリア様はそれに対してより強く、強く、強く、抵抗する事ができるようにしてくれます。

最初はもしかしたら、その最後の最後の最後の瞬間に罪から逃れるかもしれません。しかしトレーニングをよくした訓練をされた兵士のように、ますます強くなっていきますので、罪を犯す事が難しくなるようになり、マリア様に行く事だけが罪を犯さなくなる唯一なやり方です。もちろん何年もかかります。でも必ず成功します。

マリア様は、その汚いカリスをいつもいつもきれいになされている方です。これは回心のお恵みです。もしもその回心した霊魂がこのマリア様の子供が、いつも忠実にマリア様の方に近付いてマリア様からお恵みをもらおうとするならば、マリア様はその子供に光とお恵みをたくさん下さいます。その時に初めて、天主様からマリア様が頂いたその恵みを私たちに下さる事ができます。

回心のお恵みというのはもちろん、私たちにとって非常に大切ですけれども、0.1パーセントです。しかし聖化のお恵みは99.9パーセントです。残念な事に多くのカトリック信者は、その「キリスト教信仰というのは、罪を犯さない事だけだ」と思っています。

その誤解している事は、「全キリスト教生活のその核心というのは、汚いこの汚れたカリス、つまり泥の中に入ってしまったカリス、これを泥の中から取って、これをきれいする。それだけ。そしてそれを戸棚の中にしまっておく。それを使わない。」

何か司祭が贈り物に、きれいな最高のカリスを贈り物にもらいながら、そしてその素晴らしいもう金・銀で、もう色んな宝石が付いているカリスですけれども、それを使ってミサをする代わりに、それを金庫の中にしまっていて、何も使わない。

そうではなくて、まさに罪の浄めが終わったら、今から本当の生活が始まるのです。今こそ、憐れみの御母、憐れみの宝庫から、たくさんの宝を皆さんに下さる事ができるのです。

この宝物については、明日お話します。

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