Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

良き牧者である聖主とその御母の憐れみの御業は御謙遜の御業である。

2016年05月22日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2016年4月16日 聖母の土曜日に大阪で聖伝のミサを捧げました。その時のお説教をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭) 

2016年4月16日 聖母の土曜日のミサ
小野田神父 説教


聖母の汚れなき御心巡回教会にようこそ。
今日は2016年4月16日、聖母の土曜日のミサをしています。今日のこの御ミサの後に、公教要理をいつものようにしたいと思いますが、今日は長崎と秋田に巡礼に行く準備として、長崎の殉教者についてもう一度復習、もう一度その殉教者の英雄的な忍耐を振り返ってみたいと思います。できればヨハネパウロ2世教皇様によって列聖された長崎の16名の聖人、殉教者について黙想したいと思います。
次の御ミサは、5月15日第3主日(聖霊降臨の大祝日)と 16日、そしてその同じ週の20日、21日の金・土です。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

昨日は、この金曜日の御ミサで、良き牧者について黙想致しました。良き牧者とは一体何なのか、良き牧者を満たす条件とは何なのか、イエズス様はそれをどのように満たしたのか、という事を黙想しました。

今日はその黙想をもっと深める意味で、良き牧者のお母様マリア様、そしてこの良き牧者のなした憐れみの御業というのは実は、良き牧者の母であるマリア様との、愛の、憐れみの、御謙遜の、いわば競争によって作られたものである、という事を少し黙想しましょう。
次に、その憐れみのマリア様とイエズス様の憐れみの業を、私たちがどのように受けたら良いのか、私たちはそれについてどのようにして応えていったら良いのか、という事を黙想して、遷善の決心を立てる事に致しましょう。
特に、御聖体拝領を良く、マリア様のように、マリア様がなさったようにする、という決心を立てる事に致しましょう。

マリア様は、御告げを受けた時に、御謙遜に於いて答えを致しました。お告げの神秘を見ると、そのお告げの神秘の中には、謙遜で満ちています、謙遜という雰囲気で満ちています。

まず大天使聖ガブリエル、「天主の力」と言われている、天からの偉大な使者がやって来て遣わされて、マリア様の前に謙遜に、「あなたに挨拶します。聖寵に満ち充ちた方よ。」と、言うのです。

マリア様はその挨拶を見て、「一体これが何だろう。」と思われました。大天使聖ガブリエルは、「恐れるな。あなたは身ごもって子を生む、救い主を生む。」とお告げを受けます。マリア様はその事がよく分かりました。イザヤの預言によれば、「童貞女が子を産む、これがしるしとなる。」と書かれているからです。月日が満ちました。メシアの来るべき日がもう来ています。マリア様はご自分が特別に選ばれた、アダムとエバから預言されていた、救世主の母となる方だ、という事が分かりました。マリア様が求めていた事は、天主様の御旨です。「では一体私の、私は男を知らないのですけれども、どうなるのでしょうか?」あたかも、救世主の母となるという事よりも、童貞を守るという事の方が重要であったかのような口ぶりをします。「心配する事はない。聖霊によってあなたは身ごもる。」マリア様は天使の言葉を聞いて、「私は主の婢女なり。仰せの如く我になれかし。」天主の母となるという事が分かって、救い主の母となるという特別の、女性の中で、全ての女性の中で選ばれた者と分かりながら、「私は婢女です、女奴隷です。私は婢女です、仰せの如く我になれかし。」

このマリア様の御謙遜を見た時に、天主の御子はどのように反応したかというと、マリア様の御謙遜よりも更にもっと謙遜になりました。「天主が人となる」という事を、その時になさったのです。永遠の全能の天主が、小さな人間の胎児となる、という事です。この天主の御子、人となった天主の御子は将来こう言うでしょう、「私は良き牧者である。私は、良き牧者は、羊の為に命を捨てる。」この良き牧者はこう言うでしょう、「1匹の子羊を探して、99匹をそのまま置いても、良き牧者は、その道を迷った羊を連れ戻しに、探しに行く。連れ戻したら、それはその時には大変喜んで、自分の肩にかけて戻るだろう。」

天主の憐れみと、天主がどれほど罪人の回心を求めているかについて、この例えを将来、この御言葉は語るでしょう。イエズス様は天国にいて、その無限の至福を味わいながらも、私たちの為に、苦しむ為に、私たちの霊魂を探して、人となられたのでした。天使たちを天国に置いて、人となられたのでした。

マリア様はこの、あたかも謙遜の御答えによって、さらにイエズス様の天主の謙遜を引き出したかのように思われます。

イエズス様の御生涯は全く御謙遜に満ちておられました。そのイエズス様の私生活を見て下さい。マリア様とヨゼフ様の下に完全に従った生活でした。マリア様はそのイエズス様の御謙遜を見て、どれほどますます御謙遜になられた事でしょうか。イエズス様が公生活に入ると、マリア様は母親としてイエズス様の前に出て、「あぁ、これが私の子よ。」と言う事ができたかもしれませんが、そうではありません。却ってひっそりと身を潜めて、影に隠れて、あたかも存在していないかのように行動されます。ある時女性は、「あなたの吸った乳房は一体どれほど幸いか!あなたを産んだ腹はどれほど幸いか!そのようなお母様を見てみたいものだ、そのような方は本当に幸いだ!」と叫んだほどでした。

マリア様のその御謙遜、その生活の御謙遜は、イエズス様をしてさらに謙遜の道を歩ませたかのようです。イエズス様はマリア様をおそらく御覧になって、さらに謙遜の道を歩む為に、御受難の屈辱を喜んでお受けになったのかもしれません。

「憐れみ」というのは、天主が被造物の憐れさを、全く無である事を、悲惨な状態を、もう罪にひしがれて、もうどうする事も、自分ではどうする事もできない事を、自分の事として、自分のものとしてそれを引き受ける事です。イエズス様は御受難の時に、全ての苦しみと、苦悩と、屈辱と、辱めを受けました。これ以上、これ以上下に行く事ができないというほど、十字架に至るまで、死に至るまで、十字架の死に至るまで、イエズス様は御謙遜の道を通られました。

マリア様はその十字架の道を御謙遜に辿り、イエズス様の後をひたすら御謙遜に辿り、十字架の下に、悲しみのもとに佇みました。

マリア様のその、イエズス様の御謙遜に対する御謙遜への答えを以て、十字架よりもさらにもっと深い御謙遜を、イエズス様は私たちに、御復活の後も与えようとされました。十字架の上では、人間、イエズス様が人間であるという事だけは分かりましたが、天主であるという事は隠れていました。御復活の後には更に、イエズス様が天主であり人間であるという事さえも分からないかのように、命がないかのように、あたかも動く事ができないかのように、パンの姿で、私たちと共に留まろうとさえされました。良き牧者であるイエズス様はこう仰るでしょう、「私は天から降りたパンである。私を食べる者は永久に生きる。もしも私を食さないなら、あなたたちの中に命はない。」と。

イエズス様は、私たちがあまりにも惨めで、憐れであるという事を知っており、それを何とか自分のものとして、私たちにはその代わりに、その惨めさから、憐れさから救おうとされるのです。これが御聖体こそが、イエズス様の私たちに与えて下さった究極の憐れみの御業でなくて何でしょうか。イエズス様は御聖体のうちにおいて、最も謙遜になられております。

ではこれを受けると、マリア様は一体どのような反応をされるでしょうか。今までのパターンを見ると、マリア様はもっと、イエズス様の御聖体に於ける御謙遜よりももっと深い謙遜を、マリア様は私たちに見せているかのようです。マリア様は更に隠れて、天国から私たちの為に、母として力強く取り次いでおられます。私たちに憐れみの母として祈って下さっております。一体どのように祈るのでしょうか。マリア様は自分の所に引き付けておくのではなく、私たちの霊魂の母として、憐れみの母として、御聖体へと、イエズス様の聖心へと導いて下さいます。それがマリア様の御謙遜です。天のいと高き元后、天地の元后となられたマリア様は、私たちの、一番下の私たちの所に来て、イエズス様の所に導く役をして下さっています。イエズス様の聖心、私たちの救いなるイエズスの聖心、諸聖人の喜びであるイエズスの聖心、私たちの命、復活であるイエズスの聖心に、マリア様は導いて下さいます。

4月には聖カタリナの祝日がありますが、ある時、聖カタリナにイエズス様が現れて、イエズス様と聖カタリナの心を交換した事があります。もしもイエズス様が聖カタリナに、シエナの聖カタリナと自分の心を交換する事ができたら、マリア様については、どうしてそれをしない事があるでしょうか。イエズス様の心とマリア様の心は全く同じ心です。マリア様の心とイエズス様の心が御聖体を私たちに生み出しました。

すると、私たちはマリア様のその御謙遜を見て、どのようにイエズス様に対して行動しなければならないのでしょうか?イエズス様が良き牧者として私たちを探して、天から下り、私たちを養おうとして御聖体になっている、というその姿を見て、私たちはではどうしなければならないでしょうか?

マリア様のように、イエズス様の御謙遜に、「あぁ、何と素晴らしい御謙遜か。」と思い、私たちもますます謙遜にならなければならないのではないでしょうか。御聖体拝領の時にはですから、マリア様がイエズス様を受けたと同じように、私たちもますます謙遜になる事に致しましょう。御聖体拝領はただ、イエズス様の御体を受けるだけではなくて、そこには交換がなければなりません。イエズス様とマリア様の御心と交換があったように、シエナの聖カタリナの心の交換があったように、イエズス様が羊の事をよく知り、羊がイエズス様の事よく知っているように、私たちもイエズス様の事をよく深く知る為に、イエズス様に倣ってますます謙遜に、イエズス様に私たちを捧げ尽くさなければなりません。

では今日この御ミサの中で、ますますマリア様の御取り次ぎによって、イエズス様の良き牧者であるという事をよく理解できますように、そのイエズス様の御謙遜と、憐れみの御業のその偉大さを深く味わう事ができますように。
私たちが良き羊たちとして、イエズス様の良き羊に、羊飼いとしてのイエズス様にいつも従っている事ができますように、お祈り致しましょう。

また最後に、マリア様の御取り次ぎによって、私たちに、特に日本から、聖なる、聖なる良き牧者たちが、聖なる司祭がたくさん生まれますように、多くの多くのカトリック司祭たちが良き牧者として、イエズス様に倣う牧者として、羊の為に命を懸ける牧者として、たくさん出ますように、後を続きますように、お祈り致しましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。