Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

東方の3人の博士の行いをマリア様の汚れ無き御心で黙想する。

2017年01月16日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2017年1月7日(初土)に大阪で聖伝のミサを捧げました。その時のお説教をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

2017年1月7日 初土曜日 聖母の汚れなき御心の随意ミサ
小野田神父 説教

聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。

今日は2017年1月7日、今年の最初の初土曜日のミサをしております、聖母の汚れなき御心の随意ミサをしています。

今日のこの御ミサが終わりましたら、いつものようにミサの後の感謝のお祈りをします。その後に、いつもクリスマスの時に行っているイエズス様の、ローマの習慣に従ったイエズス様の、幼きイエズス様への礼拝の式を行いたいと思います。皆さんどうぞ与って下さい。
公教要理もいつものように提案しています。公教要理はこの前の続きで、聖書についてですけれども、聖書の一番重要な特徴が2つあります、「聖書には間違いがない」「それは聖霊の息吹きを受けて書かれている」という事ですが、それについて黙想する事を提案します。
今日ここで、お昼を食べた後には侍者の練習と、聖歌の練習などがありますので是非与って下さい。

カトリック教会では普通は、伝統的に御公現の時にこの一年の予定を発表する習慣があるので、それに従って今年の予定も少しだけお知らせ致します。

私たちの主イエズス・キリスト様の御降誕のお祝いを喜んだように、今年は2月12日に七旬節の主日があります。3月1日には灰の水曜日があります。4月16日には私たちの主イエズス・キリスト様の御復活をお祝い致します。5月25日には主の昇天を、そして6月4日には聖霊降臨を、6月15日にはイエズス様の御聖体の祝日をお祝いします。12月3日には待降節の第1主日となっています。

この2017年が、ファチマのマリア様の100周年ですので、良い年となりますようにお祈り致しましょう。


聖父と聖子と聖霊と御名によりて、アーメン。

今日はマリア様の汚れなき御心の初土曜日ですから、マリア様の汚れなき御心の中に深く入る事に致しましょう。

聖ルカの福音によると、第1章には2回同じ言葉が書かれています。それは何かというと、「イエズス様の御降誕についてあった出来事、またイエズス様の年少の頃にあった、子供の頃にあった事を、マリア様はその御心に深く入れて、それを思い巡らしていた。マリア様の御心は特に、イエズス様の御誕生や、また小さかった頃の事を特によく覚えて、それを黙想していた」と書かれていますから、そのマリア様の御心の中に深く入ると、私たちはイエズス様の御誕生の時に何があったか、という事をよく理解できると思います。そこでそのマリア様の御心に聞いて、今日は1月6日にあった御公現には一体何があったのかを聞いて見る事に致しましょう。

イエズス様が御誕生になられた時に御降誕になられた時に、時を同じくして東の方では、3人の王様、博士たちが頭の良い方々が大きな旅行を試みました。何故かというと、「ユダヤの国で預言された通りに救い主がお生まれになった。この方は万民の王であって、そして司祭であって、また私たちを救って下さる方である。」この3人の博士はその事をよく知っていて、場所はそれぞれ違ったのですけれども、「主の生まれる時には星が出る」という預言の通りその星を見て、その星に導かれて、その星が導く通りにそれに従って、ユダヤのエルサレムまでやって来ました。旧約の時代の預言が成就しました。

何故その東の国の博士が、3人別々の所であったにもかかわらず、その星を見てこうやって来たのか、詳しい事は私たちには今となっては知る事はできませんが、しかし色んな事を研究していて、自分の信念が「確実である」という事を深く悟ったに違いありません。

今では飛行機もありますし、バスもあるし、GPSもあるし、Googleマップもありますから、簡単に旅行しようと思えばできますけれども、その当時は何もありません。ただ単に弱々しい光、星の光によって導かれただけです。それでも危険な場所、或いは砂漠、或いは森の中、或いは強盗の中を通って行かなければなりませんでした。それにもかかわらず、召し使いを仕えて、はるばると宝物を持って旅行しました。

召し使いたちの中には不審に思う人もいたかもしれません、「一体どこにいくのですか?」「いや、星に従っていく。」「え?星に従う?一体どこに行く、どこなのでしょうか?」「それはユダヤの地だ。」「知っているのですか?」「あまりよく分からない。」「何が起こったのですか?」「王様が生まれた。」「でもあなたも王様ではないですか?」「いや、この今生まれたのは万民を治める王様であって、過去から預言された方なのだ。」

詳しい話がどうだったのか、或いは議論があったり会議があったり、「それが本当にできるのか」という事を反対意見もあったかもしれませんが、その3人の王様はそれを意見を説得するだけの議論を持っていて証拠があって、「これがこうだから、こうだ、こうだ」と言ったに違いありません。

伝統によると、1月6日に、私たちの主のこの礼拝と、そしてイエズス様の洗礼と、そしてまた同時にカナでの結婚式の婚宴が行われた、との事です。「その日付が確実にそうなのか」という事を教父たちは言うのですけれども、でもその「確実にそうだ」と言う事は聖書に日付が書いていないので私たちは言う事ができませんが、伝統的に1月6日は3つのイエズス様の行いを記念して、主が確かに現れた、私たちにその力を、真の救い主である事を見せた、という事を記念します。「王様が、3人の博士が宝物を持ってやって来た」という事と、「カナで水をワインに変えた、すばらしいブドウ酒に変えた」という事と、もう1つ「イエズス様がヨルダン川で洗礼を受けた」というこの3つの事が行われます。

これはどういう事かというと、特に東方では、東方というのはローマ帝国のギリシャ語を話すような国の人々の習慣では、ローマ皇帝が東方の国々を訪れる時には、特別にその訪れる街の人々の為に大きな食事を開いて、宴会を開いて、そしてその訪れる人たちの為に特別の特権を与えて、このお恵みを与えて、そして訪問して、盛大にこの王の皇帝の到来を祝った。或いは王様が結婚する時に、或いは皇帝が結婚する時には、大きな祝宴を開いた。それと同じように1月6日の御公現では、天主様がこの世の創り主が小さな幼子となって、私たちの所に訪れて下さった。そこで私たちはその訪れを、贈り物を以て迎えて、そして天主様は私たちに宴会を以て、私たちに大宴会を開いて下さる。

その大宴会とは何かというと、このミサに於いては、「御聖体の秘蹟である」と説明されます。私たちは天主の子供として、このイエズス様の御訪問の大宴会、御聖体の秘蹟に招かれているという事です。

ではこの王様が、3人の博士たちが贈り物を持ってやって来た、というのを見て、マリア様は一体どのように思われたでしょうか?

まず、この博士たちの信仰に感嘆したと思います。弱々しい星の光に導かれてやって来た、その博士とその信仰。その博士たちがこの幼子を見て、貧しい布にくるまれた幼子を見て、それを真の天主であり、王であり、救い主だと認めたその信仰。もしかしたらこの博士たちは大きな宮殿を、大きな寝台を、或いは召し使いたちの数々を、或いはきれいな服を想像していたかもしれません、自分たちがそうであるように。しかし貧しい外見の中に、真の救い主を見い出しました。その信仰を、マリア様はおそらく感嘆したに違いありません、「なんと素晴らしい事だろうか。」

そればかりでありません。この博士たちはその信仰を以て、この幼きイエズス様を礼拝致しました。福音書にもそう書いてあります、「額ずいて、平伏して、礼拝した」と。

そればかりではありません。この王に、この生まれた赤子に、救い主に、3人の王は贈り物を与えます。何故かというと、「まさにこの方こそ、私たちを恵んで下さる方だ」という大きな希望があったからです。そしてもう1つは、「この王こそ、私たちが愛さなければならないものだ」という愛の熱情があったからです。

マリア様はそれを見てとりました。この博士たちの信仰と、その礼拝と、深い希望と、純粋な愛を見て、どれほどお喜びになった事でしょうか。

現在私たちは、まさにこの博士の3人の博士のような態度が必要とされています。何故かというと、現在私たちが聞く事は、「この世の創り主」とか、「天主」とかという事ではありません。私たちがいつもに耳にするのは、「人間」の話しです。「人間の権利」とか、「人間の尊厳」とか、「人間が作った技術」とか、「人間がこれからやる、人間が作り出す世界」とか。そして日本の去年の一番の流行った言葉は、人間に対して何と言うかというと、「神っている」と言うのだそうです。何かすばらしい事をすると「そうだ。」「人間が中心であって、この人間の場所はもう絶対誰にも、天主にでさえも(!)、動かす事ができない。この周りに世界が回らなければならない」と思っている事です。そのような話だけを私たちはよく聞きます。

今までは私たちは或いは人間は、現実の世界を、この目に見える世界を見て、それの自然を見て、その自然を恐れて、それに従って生きようとしてきました。例えば「天主の十戒」、或いは「天主の掟はこうだ」「この世の掟はこうだ」この通りに生きようとしてきました。そしてその通りに家族を作ろうとしてきました。例えば、「天主が最初に男と女を作って、これは一体となる。天主が1つにしたものを誰も離してはいけない。」「人間は天主の似姿によって創られた。だから人の命は大切だ。」

今度は、もしも天主の事ではなくて、人間、人間、人間という事になると、人間は天主の領界までも世界までも足を踏み入れて、この世界を作ろうとしているのではないでしょうか。

例えばよく今聞くのが、「結婚は、男と男でも結婚できる」とか、「これが人権だ」とか、或いは「お母さんのお腹にいる赤ちゃんの命は殺しても良い。これが人権だ」とか、或いは「男も女もないから、男も女も同じトイレを使わなければならない」とか、或いは「老人や或いは障害者はもう邪魔だから、もしもこの人たちが『もう早く楽に逝きたい』と言えば安楽死をさせても良い、殺してしまえ」などと。

本当は人間、もちろん人間が車が右に行くか左に行くか、或いはどこに道路を造るか、どこに駅を造るか、というのは自分で決める事ができますけれども、命の事や、或いは婚姻の事について、踏み入ってはいけないところまでも、自分で作っていいと考えているのではないでしょうか。

ですからもしもこのよう事が続けば将来は、「人間は犬と結婚できる」とか、或いは「人間は今度木と結婚する」とか、或いは「これは多数決で決まったから良いのだ。人間が全て決めるのだ」というようなおかしな世界になってしまうのではないでしょうか。

例えば「芸術」というものは、昔は特に宗教関係、特にこの「美」とか「主」に対する、創造主に対するその美しさを表そうと、その尊厳さを表そうとして描いてきた、芸術が出された。ですからその時に人間がその持つ、この美に対するものを何か他の人に伝えようとするその心だった。しかし現代では、そういう畏怖ではなくて、天主ではなくて、人間の事しか考えていないので、或いは下品なものや、或いは自分の、芸術家と呼ばれる人たちだけの頭の中だけしか分からないような、他の人たちには伝える事ができないような、何を考えているか分からないようなものが、今芸術となっている。人間だけに閉じこもっている世界を、今作ろうとしている。このような傾向がますます広がる恐れがあります。

人間は、自分の快楽とか、都合の良い事とか、自分の高度な技術、お金、経済、消費だけを追求して、或いは今度はポルノとか、或いはそういうようなゲームとか、或いは立体で見る事ができるようなどうのこうの等と、ますます自分だけの世界に、空想の世界の中にだけ入ってしまって、この本当の世界から切り離されて、ますます切り離されてしまっている世界を作ってしまいます。人間を愛して、被造物を愛して、自分の思い通りの事をやろうとして、自分の楽しい事や、自分の好き勝手だけを考えて、私たちが創られたものである、私たちの人生には永遠の目的があるという事は忘れて、全く創造主に対する無関心、或いは創造主から受けた掟に対する冒涜や、或いは屈辱を以て、人間だけの世界を作ろうとしているのではないでしょうか。

まさにこの2017年こそ、私たちはこの3人の博士のように、主に対する愛を、被造物の代わりに天主に対する愛を、被造物だけを考えて天主を忘れる代わりに私たちは祈りの香を、私たちの欲望と快楽だけを追求するよりは犠牲の没薬を、被造物を愛するこの下のものだけを愛するこの愛よりは、純粋なきれいな純金のような黄金のような天主に対する愛を、私たちは捧げなければなりません。

そういう意味でマリア様の御心は私たちに、この3人の博士たちのやった行為を、「とても素晴らしい」と、「彼らに倣いなさい」と仰るに違いありません。

「マリア様、私たちはもうかつて被造物を愛してばかりいました。私たちの愛は本当に不純な愛で、不純な愛しか捧げる事ができません。」
「マリア様、私は過去、自分の都合の事や自分のやりたい放題で、犠牲の没薬を捧げる事を忘れてきました。今更何を没薬を捧げる事ができるのでしょうか。」
「マリア様、私は祈りの時も、天主に対する天に昇る真っ直ぐ昇る香よりも、よい香りのする乳香の代わりに、下の方に留まっている煙のような、臭い、雑念だけのお祈りしかできませんでした。」
「どうぞマリア様の汚れなき御心を私に与えて下さい。マリア様の御心を以て、イエズス様に今年の最初の贈り物をする事ができますように。マリア様の御心を以て、イエズス様を愛する事ができますように。マリア様の御心を以て、イエズス様に希望する事ができますように、犠牲を捧げる事ができますように、お祈りをする事ができますように、お助け下さい。」

では愛する兄弟の皆さん、昨日の御公現の中に深く入る事にしましょう。マリア様の御心を通って、深く入る事に致しましょう。マリア様の御心を通して、主に良いこの年の最初の贈り物を捧げる事ができますように、お祈り致しましょう。

聖父と聖子と聖霊と御名によりて、アーメン。



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4 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (トマスマリア)
2017-01-17 23:32:14
アヴェマリアインマクラータ!初めてコメントします、昨年12月24日に御ミサに与る事有難かだだです。神父様の説教は大変素晴らしいです。天主様の祝福が豊かにありますように!
Unknown (世素)
2017-01-18 10:10:11
犬と結婚する人がいても別によいじゃないですか?地球外生命体が

現れたら、結婚する人がいてもおかしくありません。

なんでも、天主が禁じている、天主を冒涜していると言って、

だれも迷惑がかからない事を禁止する理由など何処にもありません。

1970年代に試験管ベービーが誕生した時、天主への冒涜だと

言ってたのは、カトリックでしょう?今ではその人の孫まで

産まれているのです。うそだと思うなら、当時の新聞を調べてみてください。

カトリックの高位聖職者も、試験管ベービーに反対していたのです。

日本では、衆道でも契りを交わして、お互い以外とは付き合わないと

決めていた儀式があったのです。またポリネシアなどの部族では

同性同士の婚姻制度がありました。キリスト教化される前の

文化では普通にあった事です。一定のルールがあって、それに

したがっているのであれば、同性婚は認められなければいけない

はずです。現代が必要としているので、民衆が神に求めたので、離婚が認められたと

イエズス様が言っているように、求めれば与えられるのです。
Unknown (世素)
2017-01-18 12:22:42
カトリックでは、

同性愛は、人類の永続のために与えられた自然本能に反すると教えているが
カトリックの教えは、イエスの論理と違います。

そもそも、イエスは自然本能などと言う教えを説いていません。

だったら、イエスに何人も子供がいたでしょうか?

でっちあげの教義でめちゃくちゃな事を言わないでください。

ペトロとパウロは仲が悪く、行動を共にしていません。

同じ釜の飯をくっていない、人間同士が分かり合えるとは言えないのです。

もともと、パウロは人を平気で殺したり、迫害する野蛮人だったのです。

その元の本性は、うわべだけ回心した振りをしても、同性愛差別と

言う形で現れて、それが現代科学によって否定され、インチキがばれたのです。
キリスト教には、その源流からファリサイ派のパン種がパウロによって

混ぜられているのです。ですから、キリスト教徒は世界で

もっとも、人を殺してきた宗教なのです。

源流から派生したすべての、教派に、ファリサイ派はひそんでいるのです。
キリスト教徒は、インディアンを殺し、アボリジニを殺し、

同性愛者をガス室で殺害し、奴隷にも賃金を払っていません。

こうした、思想はパウロの影響を受けているのです。

イエスは、奴隷がせっかく、自由になったのに、元の奴隷の立場に

戻れなど言っていません。
私たちは天主によって創造されました。 (Fr Thomas Onoda)
2017-02-05 21:14:05
アヴェ・マリア・インマクラータ!

犬と結婚する人がいたとしたら、それは狂っています。

私たちは天主によって創造されました。天主の打ち立てた自然の法に従わなければなりません。生命に関することは、人間が触れることの出来ない領域です。

迷惑がかかる・かからないが、あらゆる法の基準ではありません。人間は自然法に反して実定法を定めることはできません。現代の必要は理由になりません。
そのようなことは、究極的には、人間の社会と人間の個人の不幸に結びつきます。

一人の試験管べービーが生まれるために、多くの受精卵が廃棄されます。
しかし受精のその瞬間からそれは人間です。私たちは、罪のない人間を殺したり廃棄することは出来ません。だから試験管べービーには賛同できません。

イエズス・キリストは「自然本能」に従えなどとは教えていません。天主に従うように、天主の定めた「自然の法」に従うように教えています。

ペトロとパウロは仲が悪かったわけではありません。聖パウロは改心した直後、ペトロを表敬訪問しています。
ただ、両者は天主から与えられた責務が違ったので同じ行動はできませんでした。ペトロは、使徒たちのかしらとしてローマに行きそこで死ぬまで教会を指導しました。パウロは、異邦人たちの使徒として宣教の旅に出ていました。

聖パウロは、もともと野蛮人ではなく、ユダヤ教を信じ、キリスト教を迫害していました。キリスト者の殺害に同意していました。しかし、キリストの恵みにより改心し、キリスト者となりました。

本当のキリスト者とは、聖ピオ十世教皇の公教要理によれば、カトリック信者です。

カトリック信者らは、世界でもっとも、迫害を受け殺されつづけてきました。
ユダヤ人らから、ローマ帝国時代は異教徒らから、異端者たちから、プロテスタントから、フリーメーソンの革命によって、共産主義革命によって。

アメリカ大陸では、WASPといわれる白人のアングロサクソン・プロテスタントによって、インディアンは圧迫されてきました。

しかし、カトリックのスペインやポルトガルでは、インディアンたちと結婚し、融合しました。フィリピンでもそうでした。中南米では次のような言い方があります。
「天主は白人と黒人を作り給うた。スペイン人は混血(メスティーソ)を作った。」

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)



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