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秋田巡礼-霊的講話【4】-2016年5月4日シュテーリン神父様「天主の大いなる2つの憐れみの御業とは」

2016年10月24日 | お説教・霊的講話
2016年5月4日 秋田巡礼 シュテーリン神父様霊的講話4
「天主の大いなる2つの憐れみの御業とは」

同時通訳:小野田圭志神父


最後の講話では、天主様の素晴らしい属性である正義と憐れみ、憐れみと正義、この二つがどのように素晴らしく調和しているか、という事を見ました。

異端というのはギリシャ語で「ハイレシス」と言って、これは「選ぶ」という意味です。自分の信じたいことを選ぶことで、という事は「天主の真理を全て信じないこと」ですから「調和を壊す」という事です。そして「矛盾を作り出す」という事です。この典型的な例が、正義と憐れみのこの対立です。その天主の正義と憐れみのどちらかを選んで、どちらかを捨ててしまうと、これは異端になってしまいます。

それを調和させて、一致させて、理解します。この2つの両極端が1つの同じ場所に調和を以て存在するのが、カトリックです。イエズス様のペルソナにおいて、そして特に十字架のいけにえに於いてこの2つの素晴らしい調和があります。イエズス様は一番いとも高きところと一番低いものを1つにまとめます。つまり天主様であり被造物であり、それで同時に、それが2つが1つのペルソナにおいて合体しています。

異端者は、「どうやって天主が被造物になる事ができるだろうか?」或いは、「被造物が天主になる事ができるだろうか?」天主が人となる時に、これは私たちの目の前に実現します。

十字架のいけにえでも同じです。天主イエズス・キリストの無限の天国の至福、天主としての至福と、人間としての苦しみを1つにまとめました。

天主の正義と天主の憐れみが、イエズス・キリストにおいて1つに調和しています。この十字架におけるほど天主の正義が表れた事はありません。イエズス・キリストはきっちりと正義に適って、人間の全ての罪の負債を支払いました。イエズス・キリストは全人類が受けるべき当然の罰を一人で受けました。こうやって完全に天主の正義を満足させました。

それと同時にこの十字架に於いてこそ、天主の憐れみがこれほど表れている事はありません。この皆さんのような私たちのようなろくでもない罪人の為に、天主が御自ら命を与えて下さった、という事の憐れみ、これ以上の憐れみはありません。

ではもっと話しをしましょう。しかし小野田神父は25分しか私に時間をくれませんでした、とても厳しい方です、ドイツ人のようです。(笑)

天主の憐れみの表現には2つあります。天主の第1の憐れみの業というのは何でしょうか?

これは聖書に最初に書かれています、「初めに、天主は天と地を創造された」と。明日歌ミサでクレドを歌います。その時にこれを、天主の憐れみへの讃美歌として歌ってください、「全能の聖父、天主は私たちの父となった。私の父だ。」

天と地の創造主、天主様のこの心から、私たちを愛する無限の善の心から、誰に与えようとするのでしょうか?この心から与えようとするその対象は、その誰が惨めなのでしょうか?

その対象はまだ在りません、存在していません、無、虚無です。その天主は無を考え、そして例えばこの真っ暗闇のこの闇をご覧になるように無を見て、そして天主は御言葉を発します。これは皆さんでは発する事ができない言葉です。「光在れ。」「光は創られた、光は在った。」突然無から世が創造されます。全てこの被造物が在り始めるのです。

その時には皆さんは存在していませんでした。数年前、天主は皆さんを在るようにさせて、そして今こうして存在しています。

この創造には、天主の憐れみの特別な側面があります。「天主の憐れみは予防的であって、その前を行く」とあります。私たちがこうやって在り始めるその前から、天主様は私たちの事を考えて、私たちの為になさって下さっています。私たちが何かする前に、天主の憐れみが既に働いています。皆さんが話し始める前に、天主様は皆さんの言おうとする事を聞いていました。私たちが真理を見い出したのは天主の憐れみの業であって、天主様はその事を昔から既に計画されておりました。

皆さんが御聖体の前で跪いて、「あぁ我が主よ、主よ、どうぞ私の家族を回心させて下さい、どうぞ憐んで下さい」と祈る時、でもこのような事がこうやってお祈りをして憐れみを乞う事ができるというのも、実はこれは天主様が私たちにお恵みで、憐れみで、そのお恵みを下さったからこそできるのであって、天主様の予防の、既に私たちに下さっているお恵みの結果です、憐れみの結果です。

天主のこの憐れみの業を、まず私たち自身に非常に具体的に適用させなければなりません。

皆さん、この皆さんの持っているこの美しい手を見てください。そしてここにいらっしゃる美しい女性の方々は鏡の前に立って、「鏡よ鏡よ、私に言って下さい。私は美しいですか?」と。

でもあの正しいやり方で鏡を見てください。「私はもう年寄りでおばあちゃんになった」などと言わないでください。5本の指がある。この1本があるのは憐れみの結果です。これも憐れみ、これも憐れみ、これも憐れみ、これも憐れみで在るのだ。全て天主様の憐れみの聖心から来るのです。私たちの体の1つ1つは、皆さんの美しい髪の毛の1本1本、この爪、皆さんの目も見る事ができる、耳があって聞く事ができる、心臓が今動いている、これも憐れみです。皆さん頭が良い方です。ハンサムです。特別に料理の上手い方です。もしかしたら皆さんの中に大統領がいるかもしれませんし、教授がいらっしゃるかもしれません。

「私は永遠に天主の憐れみを歌おう」と詩篇にあります。私は本当にいつでもどこでも憐れみを歌いたいと思います。皆さんと私が持っている何か、価値のあるもの皆、何か良いものは皆、私たちからのものではなくて天主様から頂いたものです。私たちには昔は心臓がありませんでしたが、心臓が創られて創造されて与えられました。皆さんに愛する温かい心を与えて下さいました。

主はこう言います、「私なしにはあなた達には何もできない。」

もしも天主がなければ、私たちには悪をするしかありません。もしも私たちが何か善を持っていて善をする事ができるとしたら、それは天主の憐れみのおかげです。詩篇には、「御身の憐れみは我を生かし、御身の憐れみが我を支え、御身の憐れみは我を行動させ」とあります。いつも憐れみの御業を賛美しています。

この第1の憐れみは、皆さんを在らしめ、そして皆さんに良いものを与えるだけではありません。1回それをやって終わりではありません。いつもそれが続いているのです。今この瞬間覚えていますか?今頭は動いていますか?今息をしていますね?天主様の憐れみのおかげです。皆さんは愛する事ができます、愛するチャンスがあります。理解ができます、皆さんはそれほど馬鹿ではありません。これは天主様の憐れみです。

私たちは1人では何もできません。天主様に全く依存している存在です。全ては天主から来るのです、由来するのです。全てはいつも絶えず天主様の聖心からやって来ます。天主の常に私たちに流れる憐れみの激流、これはイエズスの聖心です。イエズス様の聖心に槍が貫かされて、そこから血と水が流れますが、ラテン語では「continuo」と書かれています。すぐに流れたと。

朝、皆さん実際問題として起きたら何をしますか?目を開けて考え始めます。周りを見て、手と心と足を感じて、「天主様、本当に御身は憐れみ深い御方です。24時間御身のおかげで、御身が私を在らしめているおかげで、私が今持っているものを持ち、今私がこうあるようにあるのです。」

天主様は続けて皆さんに与えますけれども、その理由は動機は、憐れみです。

この憐れみという事は深い意味があります。でも皆さんが今こうやって存在して生きているというのは、天主様のものすごい憐れみの御業の結果ですけれども、しかし第2の行為の憐れみの業として比べたら、それは本当に小さなものです。天主様は最初に無から皆さんを創造しました。たとえ皆さんがものすごい完璧な天使のような存在であっても、そしてものすごい完璧な人間であったとしても、天主様の前では無に等しいのです。天主様の前では、どのように素晴らしい存在であっても被造物である限り、本当にばかばかしい一滴にしかすぎません。それでもこれが創られただけでも、憐れみのものすごい業です。

第2の憐れみの業を見てください。

この小さな一滴を見て、あたかもそこら辺にある石ころの1つを愛し、愛に焦がれているかのように。どこかのこのホテルクリプトンのこのお掃除のおばさんがゴミ箱を見て、「あ!何かすごいものを見つけた!あ!あ!」「え、おばさん何これ。これゴミじゃないの。」「でも、私にとってこれはすごいんだ!」皆さんちょっと頭がまわってると思うかもしれません。

天主様にとって私たちはまったく無に等しいゴミです。でもこの小さなこのゴミのような存在を成長させます。なんとこのゴミのような存在を天主様は、「自分の子供としよう」と考えたのです。

これは今から言うのはちょっとしたイメージです。

皆さんは奴隷です。皆さんはこの世界のどこかの端っこに生まれた、このジャングルの中のど真ん中に生まれた奴隷のまた奴隷の奴隷の子供で、どんな誰も知らないような存在です。それの生活というのは、人間というよりは獣のような生活をしています。その時にある王様がやって来て、この偉大なる王様が近くにやって来るのです。「いらっしゃい。」「え?」この王様は、その着物から王冠から見ると宮殿から非常にお金持ちでものすごい力のある方ですけれども、でも皆さんはボロを着て汚ならしくて、何も持っていません。そしてこの王様は皆さんを連れて、この王宮で宮殿に持って連れて来るのです。お風呂というのも知りませんでしたし、お皿というのも知りませんでしたし、服というのもこうやって着るのも知りませんでした。ベッドも見た事がありません。ご飯がこうちゃんと炊かられて料理してあるのも初めてです。こんなきれいな服も初めてです。鏡も見た事がありませんでした。そしてある時その乞食はですね、このジャングルから来て初めて鏡を見て、「何だこれは!?ヴーッ!!」と叩くと、自分だった。

これは、本当に天主様がやった事に比べたら何でもない事です。ただのこの貧しい人が王の、王様の王子になった事くらい。でも天主様がなさった事は、「私たちを天主の子供とする」という事です。天主様はただ単に美しい生活を70年、80年、90年、100年、この地上で生活するだけを望んだのではありません。永遠に永久に、ものすごい至福を与えようと思っていました。この四角い壁の家のこの数㎡の中に何人かは一緒に生活している、というのではなくて、無限の至福の幸せの団居(まどい)の中に生活する事を望んでいたのです。

たとえ皆さん、朝起きた時にこの全世界の所有者となって、そしてこの全世界の持てる全ての富と全ての権力、全ての力を全てを皆さんが行使する事ができるとしたとしても、天主様が皆さんの為に備えて下さっている永遠の命から比べれば、全く無に等しいのです。

天主様は皆さんを自分の本当の子供として、息子として、娘として取り扱うのです。そうはっきり書かれています、私たちは単に子供という名前だけではなくそうなのだ。その最後の福音にそう書いてあります、「天主を受け信じた全ての人は、その天主の子供となる事ができる力を与えた。“filios Dei fieri”」これが天主様の聖心で、天主が与える事ができる全てを与える心です。

最初の憐れみの行為というのは、単なる準備にすぎません。第2の憐れみの業は想像を超えるほど偉大なものです。

ではこの天主の憐れみというのは一体どうやって起きたのでしょうか?天主様は全く無の皆さんに、どうやってその信じられないほどの無限の富で満たして下さったのでしょうか?

「ちょっと奴隷、来い来い。」と言って、郵便局からここに郵便物がある。ここに切手がある、ここにパスポートもある、永遠の入国の天国へのパスポート。天主様からの公式の証明書、「あなたは天国の所有者です、天主、スタンプ、サイン。」そういうようなパッケージが届いたとしたらどれほど嬉しいでしょうか。そういうような郵便物を届けた郵便局の配達人として、天使を送ったのなら何か非常に簡単かもしれません。或いは天主様が預言者を選んで、では小野田神父を選んで、そしてその選んだ預言者が天国の天主様の郵便局に行って、これを配達する、この「天国行きですよ~」といってこれを配る。もしもそういう事があったら、この永遠のそのパスポートを天主様が下さったという事で、永遠に無限に感謝しなければなりません。

しかし天主様が、どうやって御自分の憐れみを皆さんにお知らせしようか、というそのやり方とは次のようでした。

天主様は自ら、自分からこの地上にやって来ようとしたのです。その為に自分の御一人子が人間となって来る事を、御一人子を送る事を望まれたのです。これは天主様の憐れみの別の局面です。

天主様のただ贈り物、その「物」が無に届くだけではなく、父がその「御自ら」その罪を犯した私たちの方に走ってやって来て、その子を抱きしめて贈り物を与えるのです。

こうやって天主は人となって、それがイエズス・キリストです。そしてこの人となった天主イエズス・キリストは、王の王、タボル山でこう御変容の時に見せたそのすごい王の王として、或いは復活したイエズス・キリスト、復活したものとしてではなく、最も低いものと、謙遜の内の謙遜の中に、その私たちに仕える為に人となったのでした。

イエズス・キリストの全ての御業、全生涯、なさった全てのことは、主の1つの大きな憐れみの業です。

明日は皆さんこの事を考えなければなりません。一体どうやってこの憐れみが起こったのか?今語り始めたこの事を続けて考察しなければなりません。

では、この天主様の最高の憐れみの業はどこでなされたのでしょうか?そしてこの最も大きな憐れみは誰に与えられたのでしょうか?

おそらくこう言うかもしれません、「最も最悪の罪人に与えた」と言うかもしれません。何故かというと、天主から最も遠く離れた者に、それに最も多くの宝をやって、それを天主のもとに戻したからです。ほとんど合っています、でも完璧ではありません。

更にもっと与えた方がいます。それがインマクラータで、無原罪のマリア様です。これが何故かを明日ぜひ説明したいと思います。

そうすると、「なぜ一体マリア様において天主様の憐れみというのが発展して、それが現実の事となっているのか」という事が深く理解できます。聖ベルナルドはこう言いました、「天主様はマリア様に憐みの秩序を次元を、全てマリア様に委ねた。」

マリア様は、マリア様がこの地上における天主の憐れみとなったのです。だから「憐れみの御母」と言う事ができるのです。

もっと本当は話したい事があるのですけれども、今は話す事はできません。時間が来てしまいました。では終課を唱えます、主日の終課です。

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